角中が首位打者と最多安打を獲得、また石川歩が2.16で最優秀防御率を初受賞、サブローが現役を引退。また、デスパイネが金銭面の関係で退団、ソフトバンクへの移籍が決まった。, オープン戦を首位で終えたものの、シーズンに入ると打撃陣は新外国人のジミー・パラデスとマット・ダフィー の不振などで4月のチーム打率1割台、投手陣も昨年最優秀防御率のタイトルを獲得した石川の大乱調などで4月のチーム防御率5点台と投打にわたって深刻な不振に陥り、チームは低迷した。5月3日の日本ハム戦に敗れ最下位に転落すると[76]、そのままシーズン終了まで一度も最下位を脱出できなかった。5月16日、この日の西武戦にも敗れ6連敗を喫しここまで通算37試合でわずか9勝(27敗1分け)しか挙げられず、ロッテの自力優勝の可能性が早くも消滅した[77]。5月から6月にかけ、WBCキューバ代表のロエル・サントス[78]と、ソフトバンク・オリックス・楽天でプレーしたウィリー・モー・ペーニャ[79]を相次いで獲得する。秋口になるとチームも復調し、9月は12勝10敗で今季初の月間勝ち越しを達成するが[80]最下位脱出には至ることができず、10月3日の試合で5位の日本ハムがオリックスに勝ったことでロッテの6年ぶりのシーズン最下位が確定した。そして、10月10日のシーズン最終戦にも敗れ、球団史上ワーストとなるシーズン87敗目を喫しシーズンを終え、チーム打率・得点・本塁打・防御率もリーグ最下位に終わった。伊東監督が辞任し、井口が現役を引退した。オフには大量10選手が戦力外になったことに加え、外国人選手5人の退団も決まった。また、コーチ陣も刷新。同年10月11日に一軍野手総合兼打撃コーチの山下徳人ら7コーチに対して来季コーチ契約を行わないことを通告した[81]。, 2017年10月12日、現役を引退した井口が監督に就任することが正式に決定し、球団の公式ホームページで発表された[82]。また、井口のダイエー時代のチームメイトであった鳥越裕介が一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチ、的場直樹が一軍戦略コーチ兼バッテリーコーチ補佐に就任することが発表された。, 2018年2月23日、重光昭夫代表取締役オーナー代行が同月13日に韓国で贈賄の罪で収監された[83]ことを受け、代表権およびオーナー代行職を解かれ同日付でロッテホールディングスの河合克美取締役が代表取締役オーナー代行に就任した[84]。5月10日、一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチの鳥越裕介がヘッドコーチ専任、二軍内野守備・走塁コーチの小坂誠が一軍内野・守備走塁コーチ、二軍打撃コーチ兼育成担当の堀幸一が二軍内野守備・走塁コーチに配置転換されることが発表された。また、一軍内野守備・走塁コーチの小坂がベンチ入りした影響で一軍打撃コーチ兼内野手の肩書だった福浦がコーチ登録を抹消され、福浦は内野手に専念することとなった。, この年は、4年目の中村奨吾、5年目の井上晴哉、ルーキーの藤岡裕大らがスタメンで活躍。また、新外国人投手のマイク・ボルシンガーが11連勝した。7月から8月上旬にかけてソフトバンク・オリックスとの3位争いとなったが、8月7日に4位に転落して以降、本拠地での極端な成績不振(8-10月で2勝22敗)となり、9月22日の西武戦(本拠地)で福浦和也が通算2000本安打を達成してもチームは逆転負けするなど、9月5日を最後に本拠地で勝つことができず、シーズン最終戦でパ・リーグ新記録となる本拠地14連敗を喫した。9月27日の楽天戦に敗れて2年連続のBクラスが確定、10月5日の楽天戦に勝利したことでシーズン5位が確定し、2004年に消滅した近鉄を含む13球団で唯一平成30年間で1度も1位確定をしなかった[注 21]。また、球団史上初めてパ・リーグ全5球団への負け越しが確定した[85]。, チーム盗塁数は西武に次いで2番目に多い124個を記録するも、チーム総得点は最下位の楽天に次いで少ない534点、チーム本塁打数に至ってはパ・リーグで最下位の78本にとどまり、盗塁が必ずしも得点に結びつくことが出来なかったことに加えて、チーム防御率も西武に次いで2番目に悪い4.04を記録。前年同様、投打にわたり課題を残すシーズンとなった。, この年限りで、岡田幸文、根元俊一、大隣憲司、金澤岳が現役を引退した。 ロッテのエースって誰なんですか? 1 : 代打名無し@実況は実況板で :2008/04/30(水) 22:40:35 ID:WLTm9PqR0 開幕投手の小林宏ですか? 1: 名無し 2019/03/12(火) 04:11:31.71 ID:G0YAjwvCaしゃーない. [147]。, 1969年10月10日、日本生命球場での近鉄バファローズ戦のダブルヘッダー第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。5時間超えは当時の日本プロ野球史上初の出来事でもあった。, その後、この日本最長記録は更新(全てセントラル・リーグ、またはセ・パ交流戦)されているが、2009年7月2日、西武ドームでの埼玉西武ライオンズ戦では、セ・パ交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では当時歴代最長となる延長12回、5時間42分を戦い9-8で勝利した。, また、ポストシーズンでは1981年のプレーオフ、川崎球場での日本ハムファイターズとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分を戦い4-4の引き分けに終わった。2010年の日本シリーズ、ナゴヤドームでの中日ドラゴンズとの第6戦では延長15回、5時間43分を戦い、2-2で引き分け、日本シリーズにおける歴代最長試合時間記録を35年ぶりに塗り替えている。, 現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年に大映ユニオンズと合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。, 1973年、ロッテオリオンズはジプシー時代最初のシーズンを終えた。一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていた東映フライヤーズはオーナー企業の経営難等により、同年2月7日に球団の経営権が東映から日拓ホームに譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)うえ、プレーオフを制して日本シリーズに進出した南海ホークスも読売ジャイアンツ(巨人)の前に1勝4敗で散り、巨人のV9を許した。この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、さらに1リーグ制への移行を画策し始めた。, 前述の通り、当時ロッテはジプシー生活を強いられていたため首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。またロッテのオーナー・重光武雄も球団経営にあまり執心がないと憶測されたことから、合併調印は時間の問題といわれていた。さらには関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。, しかし重光はこの合併を否定。結局、合併そのものもほどなく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権を日本ハムに売却、事態は収束した(この一連の詳細はプロ野球再編問題 (1973年)を参照)。, また2004年には、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるためさらなる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。, この過程でロッテは、当時親会社ダイエーの経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れたことが判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、二軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテ・ホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。また、ロッテと西武ライオンズを合併して、「ロッテライオンズ」、東京ヤクルトスワローズと合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが[注 35]、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。, 結局同年オフ、ダイエーは産業再生機構の支援を受けて経営再建を図ることとなり[注 36]、ホークスはソフトバンクに売却されて福岡ソフトバンクホークスとなった。, ロッテ本社は1971年から球団を保有しており(球団名のスポンサーとしては1969年から)、2012年現在パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。, なお福岡移転問題はこれが最初ではなく、川崎球場時代の1984年に稲尾和久が監督に就任した際、平和台野球場への移転の実現を前提として就任を受諾したとされているが、このときも本拠地の移転は実現しなかった。, ロッテは1980年代後半に当時のオリオンズ球団の身売りを検討した事がある。1987年に2年前(1985年)の阪神タイガース優勝を機にプロ野球の球団経営に興味を持っていた流通大手のダイエーに接触。ロッテとダイエー両社による会談に加え、行政への根回し、ダイエー各店舗におけるロッテ商品取扱を増やすバーター取引、更には神戸市または福岡市(後者への移転が有力視されていたが、福岡移転計画浮上時でも前者もサブフランチャイズとして検討された)への本拠地移転も検討するなど、オリオンズ球団の売却は確実の段階にまで来ていたものの、合意寸前でロッテが球団保有を継続して別の本拠地に移転する方針に変更したため、ロッテの売却は中止となり、福岡移転・神戸サブフランチャイズ化は実現されなかった。, しかし、ロッテの球団売却中止の直前に、他企業へのホークス球団譲渡を模索していた南海電気鉄道では、ダイエーが球界参入を検討しているという情報を得ると、同社とダイエー両社のメインバンクだった三和銀行(現・三菱UFJ銀行)に仲介を依頼。その結果、ダイエー社長の中内㓛は買収先をロッテオリオンズより変更して南海ホークスの買収を決断[148]。オリオンズに変わってホークスが福岡に移転する形でダイエー念願の球団保有が実現した[149]。, 1998年、6月13日から7月8日までの19試合で、日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した。球団公式サイトのチームヒストリーでも「悪夢の18連敗」と記されている[150]。, 2005年の開幕2連戦、ロッテはこの年に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスを本拠地の千葉マリンに迎えて対戦した。, 開幕戦となった3月26日の1回戦は1-3で敗れ楽天に球団初白星を献上。だが翌27日の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。打っては楽天の6投手から24安打14四死球をマークし、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発の渡辺俊介が相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。, 26点差での完封勝利は1946年7月15日、富山県の高岡工業専門学校グラウンドでの公式戦で近畿グレートリングがゴールドスターを相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなる日本プロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。また、1試合最多得点の球団記録も、毎日時代の1950年5月31日に対東急フライヤーズ戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。, ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中から韓国と台湾での公式戦開催について検討を行ってきた。その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。カードはロッテ主催の対ソフトバンク2連戦とし、釜山の社稷(サジク)野球場、ソウルの蚕室(チャムシル)総合運動場野球場で各1試合を開催する予定だった。しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のLGツインズと斗山ベアーズの2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市である仁川の文鶴(ムナク)野球場での開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。, だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は前述)。, ロッテは2009年6月11日の対広島東洋カープ4回戦(千葉マリン)で、6回裏に延べ20人の猛攻で15点を挙げ、チーム1イニングの攻撃に関する7つのプロ野球記録(チーム記録6、個人記録1)を樹立した(以下の太字は新記録及びタイ記録)。, 1イニング12安打は史上2位タイで、最多記録に1本及ばなかったものの打者2巡・1イニング打者20人はこれまでの18人を更新する新記録。1イニング15得点、1イニング15打点も、過去にセ・リーグで通算4回記録された13得点・13打点を上回った。打者3人目の井口資仁から15人目の里崎智也まで3四死球を挟んで記録した10打数連続安打は、通算3回目となる当時の最多連続タイ記録。加えて里崎の後にはチェイス・ランビンと今江敏晃も死球と失策で出塁し、過去の13者連続を更新する15者連続出塁の新記録(失策による出塁を含む参考記録)。さらにこの間、井口からランビンまで記録した14連続得点も、1992年7月26日にオリックス・ブルーウェーブが対福岡ダイエーホークス21回戦(GS神戸)で記録した12連続を17年ぶりに更新する新記録となった。, また、この回先頭の福浦和也は2打席目に代走を送られたが、続く大松尚逸が日本プロ野球史上初の1イニング3打席を記録した。だが、2打席目で2点適時二塁打を放ったものの1打席目と3打席目では凡打に倒れた。大松は試合後、「不思議な感じですね。自分はアウトを2つ取られた。損したのか得したのか分からないです」と苦笑いしていた。, 結局、ロッテの6回裏の攻撃は約48分にも及び、試合は23-2でロッテが圧勝した。ロッテが挙げた23得点は、セ・パ交流戦開催1シーズン目の2005年6月12日に読売ジャイアンツが対西武ライオンズ6回戦(東京ドーム)で、記録した19得点を更新するセ・パ交流戦最多得点の新記録となり、交流戦初の20得点以上をマークした。, ロッテは前日の6月10日、広島の先発コルビー・ルイスに苦しめられるなど、11残塁13三振を喫する拙攻で完封負けを喫していただけに試合後、ロッテのボビー・バレンタイン監督は、「昨日はラッキーな安打が出なくて苦労したのに、今日はそんな安打が何本も出たね」と満足そうだった。一方、大量失点を喫して敗れた広島のマーティ・ブラウン監督は、「まるでラグビーだね。」と怒りを通り越して呆れ返り「今日の勝者はマリーンズじゃない。むしろ、これだけ点差があっても応援し続けてくれた左翼席のカープファンこそが真の勝者だよ。」と悔しさをにじませていた。, 球団ではこの記録達成を記念して、このイニングに出場した12人が当日使用していたバットを納めた「1イニング15得点記念モニュメント」を作成し、8月1日から千葉マリンスタジアムの内野スタンド2階Bゲート付近にて展示している。, ロッテは、2010年6月7日の対東京ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)で7回表に10者連続安打・連続得点の猛攻で10点を挙げ、前年のヤクルトなどが計8回記録した1イニング最多連続打席安打のプロ野球記録(9者連続)を更新した。, 1点ビハインドのこの回、ロッテは一死無走者から里崎が四球を選んで出塁したのを皮切りに南竜介の左前安打から連打攻勢がスタートした。代打の青野毅が中前安打で満塁とすると、西岡剛の遊撃と左翼の間に落ちる2点適時打で逆転に成功、ヤクルトの先発村中恭兵をKOした。さらに今江も安打で続き、井口の内野適時打で1点を追加。続けて金泰均が15号満塁、サブローも10号ソロと2者連続で本塁打を放ち、再び打順が回ったフアン・ムニスが二塁打で出塁すると、里崎も8号2ラン本塁打を放ち前年に続いて10連続得点を達成した。そして南がこの回2本目の中前安打を放って10者連続安打の新記録を達成している。, 青野の代打で送られた岡田幸文が三塁ゴロに倒れ、ロッテの連続記録はストップした。岡田は試合後「すみません。知りませんでした」と平身低頭だった。同日、ロッテがこの記録を達成した直後にはオリックスが対広島4回戦(福山市民球場)の6回表にやはり1イニング10者連続安打のタイ記録を達成しており、両チームがまとめて従来の記録を更新したことになる。試合は結局ロッテが14-2で大勝した。ロッテの西村徳文監督は試合後、「同じ日に同じ事をやるとは思わなかったです」と驚嘆しつつも、報道陣の「もう1本続いていれば単独新記録だった」という問いに対しては「そんな贅沢は言ってられない。よく繋いでくれた」と笑顔を見せ、快挙を達成したナインを讃えた。, 1イニング10打数以上の連続安打を2度記録したのは、前述のヤクルトに次いでロッテが史上2チーム目。ヤクルトが1度目に達成したのは1998年4月22日の対中日ドラゴンズ戦でのもので、2年連続での達成は史上初のケースである。さらにロッテが1イニング10連続以上の得点を記録したのは前述の2005年の楽天戦(10連続)、2009年の広島戦(14連続・プロ野球記録)に次いで、これが通算3度目。2桁連続得点は阪神タイガースが通算5度と最も多く、ロッテは中日と並んで2位タイ、パ・リーグではオリックスの2度を抜いてリーグ最多である。, 加えてこの日開催されたセ・パ交流戦の6試合で、パ・リーグ6球団が挙げた総得点は55得点(オリックス21、ロッテ14、日本ハム13、西武4、ソフトバンク3、楽天0)で、1日あたりのリーグ総得点の新記録も更新している。, ロッテは宮城県仙台市の宮城球場での公式戦において、10連敗以上を2回記録している。同球場を暫定的に本拠地としていた1973年から1977年にかけての5シーズンでは2桁連敗の経験はなかったが、首都圏に本拠地を再移転してからはこれを2度喫している。, 1度目は1991年から1994年にかけ、ロッテ主催の地方開催試合で足掛け4シーズンにわたって喫した12連敗。2度目は2009年7月9日から2010年9月19日にかけ、足掛け2シーズンにわたって喫した16連敗。宮城球場は2005年から東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となっており、後者の連敗はいずれも対楽天戦でのものである。ロッテはこの間、同カードのビジター戦では2010年4月21日に郡山総合運動場開成山野球場で開催された同5回戦に6-0で勝利したのみで、仙台では全敗を喫していた[注 37]。9月20日の同22回戦、延長12回の末に9-7で勝利して連敗を16で止めると、翌9月21日の同23回戦は12-2で大勝して同年シーズンの仙台での試合を終えたものの、結局このカードのビジター戦は2年連続で3勝9敗と大きく負け越した。, なお、同一球場・同一カードの最多連敗記録は、1954年から1956年にかけ、大映スターズが後楽園球場での対南海ホークス戦で記録した21連敗である。, 平日のデーゲーム開催は、ナイター設備がなかった時代の1950年代までは頻繁に、それ以後も少なくとも1980年代まではリーグ順位決定後の消化試合やポストシーズンを中心に行われていた。その後はナイター設備がない球場で開催する場合を除き、デーゲームで行うことはほとんどなかったが、2011年の東日本大震災発生時には、当初予定のナイターを、省エネ対策のため13時開始のデーゲーム[151]に繰り上げたことがあった[注 38]。, その3年後の2014年、今度は春休みのファンサービスの目的として、予め組まれた日程では千葉移転後初[注 39]となる平日デーゲームを4月2日と4月3日の対西武戦で実施した。3日の試合は雨天のため中止となり、平日デーゲームは1試合だけだったが、それでも2013年最初の平日ナイトゲームとなった同4月3日に行われた日本ハム戦の9666人を上回る16,029人のファンを集め好評を得た。このため、2015年度最初の地元主管試合となる4月1日と4月2日の日本ハム戦を14時開始のデーゲームとすることになった[152]。, このように、平日デーゲームを春休みに予め開催する事例は、楽天も2007年以後、年度により非開催(2011年は当初予定も震災による日程延期と、Kスタ宮城の損傷により取りやめ)があったが、毎年1カード(2試合程度)行っている[注 40]。なお、ロッテ・楽天以外にも、同じく東日本に本拠地を置く日本ハムと西武も後に平日デーゲームを開催するようになった[注 41]。, 球団の親会社であるロッテは、当初業務提携という形であったが1969年より球団経営に参画した(詳細は前述)。だが、長らくパ・リーグ自体が不人気で(詳細はパシフィック・リーグの項目を参照)球団は毎年赤字決算が続いていた[注 42]ものの、2000年代に入り、地域密着に注力してファンを増やし観客動員が伸びたほか、グッズの売り上げの貢献や、球団が千葉マリンスタジアムの指定管理者となったことで球場内での飲食などでも収益を得られるようになったため収支が大幅に改善していった。2018年は観客動員、グッズ、飲食など全てで過去最高益を更新したことで、球団名が「ロッテ」となってから50年目となる2018年度の決算で初めて、親会社からの補填に頼らず黒字化を果たした[153]。2019年4月15日に公表した第70期決算公告によると、2018年度の純利益額は3億8513万円、利益剰余金は4億1767万円であった[154]。なお、2020年4月15日に公表した第71期決算公告でも、2019年度の純利益額は7億5536万円、利益剰余金は11億7303万円となり[155]、2年連続で黒字となり最高益を更新した。, パシフィック・リーグはセントラル・リーグの球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本である福岡ソフトバンクホークスや東北楽天ゴールデンイーグルスはもちろん、北海道日本ハムファイターズも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。それなりの通信品質でインターネットの接続環境を確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦ができる状況になっている。, 各球団がさまざまな形で主催試合をインターネット配信している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビGyaO(ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た(なお、GyaOでの放送は、日本国外からは視聴不能)。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。, 「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信におけるポータルサイトとしての性格が強く、6種類のコンテンツをテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。, 中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! 横浜DeNAベイスターズがかつて「横浜大洋ホエールズ」と称していた時代に、エースとして君臨した遠藤一彦氏。得意のフォークボールを武器に通算134勝、沢村賞1度、最多勝2度など輝かしい実績を誇った。右足アキレス腱断裂の大ケガを乗り越え、1992年に現役を引退。 高沢秀昭が首位打者・小川博が奪三振王に輝く。小川、村田兆治、荘勝雄、園川一美の4人が二桁勝利を挙げた。, 二軍の本拠地が東京都青梅市の青梅球場から埼玉県浦和市(現:さいたま市南区)のロッテ浦和球場に移転[注 8]。, 村田兆治が5月13日の山形県野球場での対日本ハム戦に勝利し通算200勝を達成。防御率1位に輝く。, 最下位で球団初の2年連続最下位に終わり、有藤が監督を退任。後任には、金田正一が2度目の監督就任。, チーム成績は1990年は5位。西村が首位打者になる。村田が現役引退。ドラフト1位指名の小池秀郎が入団拒否。, 首位の西武と33.5ゲーム差の最下位。内外野全面への人工芝敷設、スコアボードの電光化など川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句にファン拡大作戦を実施した(同年の新語・流行語大賞表現部門で「川崎劇場」が金賞に選ばれた)。観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった[25]。平井光親が首位打者を獲得。金田が辞任。, 9月4日、翌年から保護地域を川崎から千葉県、専用球場を同県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに移転することがオーナー会議によって承認、発表された。移転に伴う新しい球団名は一般公募により改称されることになり、同年11月21日、新しい球団名は千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。, この年のオフ、金田が監督を解任された[26]。後任に球団OBの八木沢荘六が就任。奇しくも1978年に八木沢に引退勧告を行ったことがきっかけで監督を解任された金田が、再び八木沢に追い出された形となった。本拠地移転や球団名変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットを一新。, 本来開幕権はオリックス・ブルーウェーブが持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生千葉ロッテは本拠地で開幕を迎えた。4月は首位で終えたが、その後は失速、千葉移転初年度は昨年続き最下位に沈んだ。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。しかし翌年もメル・ホールや宇野勝を獲得し補強を行ったがチームの地力は上がらず5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。この年のオフ、当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。, 開幕当初よりチームは低迷し、八木沢は8月1日をもって休養。その後は、中西太が代理監督を務め、5位に終わる。オーナーの重光武雄が中西に監督就任要請をするも中西は断り退団[27]。, 日本球界初のGM(ゼネラルマネージャー)として広岡達朗が就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のあるボビー・バレンタイン監督を招聘。バレンタインの提案で、川崎から移転後3年間採用していたピンク色を主体としたユニフォームを、ピンストライプのデザインにリニューアル。2年間の在籍で中軸として結果を残していたメル・ホールを性格の荒さや素行の悪さを原因に解雇。代わりにフリオ・フランコ、ピート・インカビリアを獲得。序盤は出遅れるが、2年目ながらトップバッターに起用された諸積兼司、リーグ打率2位の堀幸一、打点王を獲得した初芝清[28]、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担ったフリオ・フランコ、伊良部秀輝、小宮山悟、エリック・ヒルマンの先発三本柱、河本育之、成本年秀のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で10年ぶりのAクラス入りを果たす。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。フランコも広岡との確執で解雇。, バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた江尻亮が昇格したものの大学で広岡の後輩だったということで「広岡の傀儡政権」と陰口を叩かれる。またチームも投手は伊良部が最優秀防御率・ヒルマンが防御率2位・成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きをし二年目の黒木知宏が奮闘したが、開幕投手を努めた園川が0勝7敗、小宮山も大きく負け越し防御率も前年より2点以上悪くそれ以外が計算出来なかった。野手は外国人が活躍出来ずに、初芝もマークが厳しくなり勝負強さが発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水で結局5位に沈み、広岡は契約を一年残して解任され[29]、江尻もこの年限りで辞任。伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースに移籍(伊良部メジャーリーグ移籍騒動)。ヒルマンも巨人へ移籍。, 近藤昭仁が新監督に就任。これはロッテのフロントが元巨人監督の藤田元司に「立て直し役に最適な人はいないか」と相談し、89年から3年間巨人・藤田監督の下でヘッドコーチを務めていた近藤を藤田がロッテ側に推薦し、監督就任に至ったものだった[30]。横浜ベイスターズ時代のスクイズの多用に代表される采配のまずさによる成績不振、佐々木主浩らと確執を生みチーム内に不和をもたらすなどの不安要素を押しての起用となった。 なんやかんやで二桁勝ってた地味様ってエースだったわ 24 名無しさん@おーぷん 2014/06/14(土)23:23:57 ID: 藤岡古谷石川がロッテのエース候補なのね 千葉ロッテマリーンズ(ちばロッテマリーンズ、英語: Chiba Lotte Marines)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。, 千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるZOZOマリンスタジアムを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県さいたま市にあるロッテ浦和球場である。, 9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)が結成された。毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。戦後、正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に、自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成。9月21日、日本野球連盟に加盟を申請。, リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった読売新聞社(読売ジャイアンツの親会社)・中部日本新聞社(中日ドラゴンズの親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスの7球団からなる太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)と毎日オリオンズ加盟反対派の大阪タイガース・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズの8球団からなるセントラル野球連盟(セントラル・リーグ)が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。, この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった若林忠志・別当薫・土井垣武・本堂保次・呉昌征が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。, パ・リーグ公式戦開始より参入。本拠地は後楽園球場。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースから前述の大毎野球団の一員となった湯浅禎夫を総監督、前大阪監督の若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、大洋漁業(後の大洋ホエールズ)から獲得した河内卓司・戸倉勝城を加えて「ミサイル打線」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した星野組のエース荒巻淳や、大洋から獲得した野村武史が活躍。10月25日、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝[2]、日本シリーズでも松竹ロビンスを4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成した。打者では別当薫が本塁打王、打点王の二冠王を獲得し最優秀選手となり、投手では荒巻淳が最多勝、最優秀防御率の二冠王で新人王となっている。, 7月16日、福岡・平和台野球場での対西鉄ライオンズ戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生(平和台事件)。7月27日、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰[3]。, 首位南海と14.5ゲーム差の5位。西宮球場での対阪急戦が、NHKによるプロ野球初のテレビ中継となる[4]。, 山内和弘が打率リーグ2位の.325と打点王、中川隆が最優秀防御率をあげ、新人の榎本喜八が新人王を獲得。チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。, シーズン成績は3位。11月28日、成績が低迷していた大映ユニオンズ(大映野球)と対等合併し毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)に改称。略称は大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)。新会社毎日大映球団[注 2]が設立。球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的には毎日新聞社と大映の共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長の永田雅一がオーナーに就任するという「逆さ合併」だった。, 葛城隆雄が打率リーグ3位・打点王となるがチームは4位。この時期、パ・リーグでは西日本に本拠を置く南海と西鉄がリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがリーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった[5]。オフには、この年セ・リーグの首位打者となった田宮謙次郎がA級10年選手の権利で阪神より移籍する。, 西本幸雄が監督に就任。新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」で10年ぶり2回目のリーグ優勝。結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。しかし、大洋ホエールズとの日本シリーズでは、4連敗で敗退。その時のバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。, この年をもって毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が球団経営を掌握することになる。パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた[6]。毎日の撤退は、その戦略が潰えたことを意味した。毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズについての記述が著しく少ないという指摘がある[7][注 3]。, 3年続けてBクラス(1961年・4位→1962年・阪急と同率の4位→1963年・5位)。 >>66 松坂が居てもエースは西口みたいなもんで 小宮山や俊介はエースだった時期無いやろ 株式会社ロッテ(LOTTE Co., Ltd.)は東京都新宿区に本社が在る菓子メーカー。重光武雄(辛格浩)が1948年(昭和23年)に日本で創業。創業以来、世界各地でグループを展開し、重光の出身地である韓国で積極的に投資して大規模に事業しているロッテグループ#韓国ロッテグループに詳述がある。プロ野球チームとして日本で千葉ロッテマリーンズ、韓国でロッテ・ジャイアンツを有する。非上場企業。みどり会の会員企業で三和グループに属している[1]。, 株式会社ロッテは持株会社ロッテホールディングスとなり、持株会社に移行し、菓子メーカーとしての現在の株式会社ロッテは分離して新設され、持株会社の傘下となっている。現在CEOは牛腸栄一(代表取締役社長,元 ロッテ商事取締役営業部長), ドイツの文豪ゲーテの『若きウェルテルの悩み』のヒロイン「シャルロッテ」に因み「ロッテ」と命名[2]。, ザ・ドリフターズの仲本工事の実母が応募した「お口の恋人 ロッテ」をキャッチコピーにしている。日経BPコンサルティングによる「コーポレート・メッセージ調査」の「想起率」ランキングで5年連続してで第1位を記録している[3]。, かつては米菓、メロンクリームソーダや猿王(烏龍茶)といった飲料(ソフトドリンク)も手掛けた。, 中国や台湾では、ロッテのことを「楽天」(簡体字/乐天・繁体字/樂天・ピンイン/Lètiān)と表記している。これは日本の楽天株式会社の設立以前から用いられている単語であり、楽天株式会社とロッテに直接の関連性は無い。, なお、両社とも日本のプロ野球で球団を持っており(かついずれもパシフィック・リーグ所属)、なおかつ楽天が台湾のプロ野球に参加するようになったため(楽天モンキーズ)、球団の名称についてはロッテを羅徳と表記し区別している。ただし、同じ辛東彬がオーナー(代行)を務める韓国プロ野球のロッテジャイアンツは区別の必要性が低いため楽天表記であることが多い。, 1961年(昭和36年)4月、ロッテガム50円分の包装紙を送ると「1000万円が当たる抽選券」が貰える懸賞。800万通近くの応募があった[11]。, 1976年(昭和51年)10月、ロッテ製品200円分の包装紙を送ると中野サンプラザ、川崎産業文化会館、読売ホールで行われたビートルズのフィルムコンサートチケットがペア5000組に当たる懸賞が行われた[12]。, 製品外箱についているLのマークを必要ポイント分集め応募すると、景品がもらえた。2019年3月末をもって終了した。, ロッテが創業70周年を迎えた2018年には、これを記念したアニメーション「ベイビーアイラブユーだぜ」が制作された[13]。監督は松本理恵、アニメーション制作はボンズ。同年12月5日にフジテレビ系列で放送された「2018 FNS歌謡祭」第1夜のCM枠で30秒バージョンが、12月12日の「2018 FNS歌謡祭」第2夜にて60秒バージョンが放送された。現在はYouTubeで本編が公開されている[14]。テーマソングはBUMP OF CHICKENによる書き下ろし楽曲の「新世界」で、使用されているのはショートバージョンである。なお、アニメーションのタイトルはこの楽曲の歌詞から採用されたものである[15]。また、BUMP OF CHICKENが2019年7月10日に発売したアルバム『aurora arc』の初回限定盤には、本アニメーション映像を使用した「新世界」(フルサイズ)のミュージック・ビデオが収録されている。, 2019年11月23日には、『ロッテ創業70周年記念スペシャルアニメーション「ベイビーアイラブユーだぜ」ビジュアルブック』が復刊ドットコム[注 1]から出版されている[16]。, 五十音順。太字は現在の出演者。Iはロッテアイス(旧ロッテ冷菓・ロッテスノー)、Kはロッテ健康産業の取扱商品。, それ以外はスポットCMや、週替わり・日替わりスポンサー(地方局による情報番組含む)が多い。また、三重テレビ放送制作の紀行番組にも『協賛』扱いとなっている(CMは流さない)。, なおここまで、土曜日の夜に放送されていたロッテ枠は、10年間のブランクを経た後の2002年10月に日曜日22時台へ移り、ロッテ・ガールズハッピータイムと題して『上戸彩 Seventeen's Map』(その後4回番組名を変更)、『長澤まさみタイトル未定(仮)』→『長澤まさみSweet Hertz』を放送。2012年4月から2018年9月まではロッテ・週末ヒロインタイムとして『ももいろクローバーZ ももクロくらぶxoxo』を放送していた。, http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20090630-OYT1T00877.htm, 川村元気 × 松本理恵 × BUMP OF CHICKENのタッグによる、ロッテ創業70周記念スペシャルアニメーション『ベイビーアイラブユーだぜ』12月12日(水)4時スペシャルサイトで公開!!, BUMP OF CHICKEN、松本理恵監督のロッテ70周年アニメ主題歌を書き下ろし, BUMP OF CHICKEN、新曲“新世界”をロッテ創業70周年記念スペシャルアニメに書き下ろし, YouTubeで1400万回再生突破、ロッテ70周年アニメの映像に迫るビジュアルブック, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ロッテ&oldid=81821891, チューイングキャンディ:板ガムに似た形・包装のソフトキャンディ。様々なアニメ作品とコラボレーションしている。, かわりんぼ:品名はチューインガムの棒付きキャンディ。棒部分がガムになっており、キャンディにはラムネが入っている。, ミルク5:読みはミルクファイブ。1980年代前半に発売されたキャラメル。従来のものよりも大粒でなめらかな食感が売りであった。1パッケージに5粒入り)。, ビックリマンカレースナック - ビックリマンチョコの天使・悪魔シリーズの旧作シールを復刻して同封。, 松本理恵・ボンズ著『ロッテ創業70周年記念スペシャルアニメーション「ベイビーアイラブユーだぜ」ビジュアルブック』. 投稿日:2014年06月15日 11:02 ID:kiUUMPGFO スレタイ見てまず「エースって誰だっけ? って思ったロッテファンww 52 風吹けば名無し 2020/11/12(木) 19:19:23.29 ID:R6GD7V4ra 【悲報】お前らさん、ロッテのエースが誰かわからない ... ロッテ佐々木朗希は誰と自主トレしてるんや? 20時間前 | まとめロッテ! ロッテ清田育宏さんが今してそうなこと 21時間前 | なんjまん . つば九郎&ドアラwithマーくん・ハリーホーク オフィシャルブログ Powered by Ameba, 千葉ロッテマリーンズのラッピング電車「2015マリーンズ号」を運行(3/24〜9月末), “ニコニコ超会議2016”の詳細情報が発表! 今年は幕張メッセ全エリアに加え、QVCマリンフィールドも会場に, http://www.sanspo.com/baseball/news/20140307/mar14030704420000-n1.html, 2020年ユニホームを発表 新サプライヤーはミズノと'47に決定|千葉ロッテマリーンズ, https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=001-20200511-37&page=2, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/01/22/kiji/K20150122009675270.html, https://www.nikkansports.com/baseball/news/201812260000753.html, 【決算】千葉ロッテマリーンズ、2018年度は3億8513万円の純利益(黒字)を計上, 【決算】千葉ロッテマリーンズ、2019年度は7億5536万円の純利益(黒字)を計上, CS放送「TBSニュースバード」でプロ野球千葉ロッテマリーンズ主催公式戦全試合を完全生中継, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=千葉ロッテマリーンズ&oldid=81791990, Aクラス 29回(1950年 - 1952年、1954年 - 1957年、1959年、1960年、1968年 - 1971年、1973年、1974年、1976年、1977年、1980年、1981年、1984年、1985年、1995年、2005年、2007年、2010年、2013年、2015年、2016年、2020年), Bクラス 42回(1953年、1958年、1961年 - 1967年、1972年、1975年、1978年、1979年、1982年、1983年、1986年 - 1994年、1996年 - 2004年、2006年、2008年、2009年、2011年、2012年、2014年、2017年 - 2019年), 連続Aクラス入り最長記録 4年(1954年 - 1957年、1968年 - 1971年), 連続Bクラス最長記録 9年(1986年 - 1994年、1996年 - 2004年), 最下位回数 9回(1983年、1988年、1989年、1991年、1992年、1997年、1998年、2011年、2017年), 最多連勝 18(1960年)※途中1引き分け挟む、引き分けを挟まない記録は14(同年), 最多連敗 18(1998年)※途中1引き分け挟む、引き分けを挟まない記録は12(同年), 1イニング最多得点 15得点 (2009年6月11日対広島6回裏・日本プロ野球記録), 一軍公式戦において、2004年までは全試合が対象・2005年以降はリーグ戦のみが対象で、前身球団を含む現存する12球団で唯一、全球団に負け越したシーズンが意外にも2017年まで1度も無く、2018年に初の屈辱を味わった, 2001年:「For the Team Strive for Victory(チームのために勝利に向かって奮闘しよう)」, 2004年:「This year is beginning of the future.(今年から未来が始まる)」, 2007年:「All Hands to The Flag! 将来のエース佐々木朗ら“大補強” ロッテが描く野望「絶えずv争いできるチームに」 2019年は種市、岩下、二木ら若手投手陣が奮闘したものの、4位で惜しくもcs進出を逃したロッテ。 打線の強化を図り、MLB通算2008安打、首位打者4度の実績を誇ったビル・マドロックは、.263 19本塁打と期待を裏切り同限りで解雇。 また、オフに、平沢大河、酒居知史、種市篤暉の3選手がオーストラリアン・ベースボールリーグに所属するオークランド・トゥアタラに派遣されることが決まった。, 11月6日、ケニス・バルガス内野手の獲得を発表した。その他にも、元楽天の細川亨捕手や元日本ハムのブランドン・レアード内野手、北米選手の中では最年長でメジャーリーグにデビューし、元横浜の選手でもあるブランドン・マン投手、メジャーリーグ出場経験のあるジョシュ・レイビン投手を獲得した。また、広島東洋カープからFA宣言した丸佳浩外野手の獲得にも乗り出したが、読売ジャイアンツに争奪戦に敗れ、獲得には至らなかった。さらに、長年の課題であった長打力不足を解消するために、本拠地ZOZOマリンスタジアムに、ホームランラグーンを新設。このホームランラグーンいわゆる、ラッキーゾーンにより、外野フェンスが最大で4メートル前にせり出すこととなり、本塁打の増加が期待された。, 開幕戦では楽天相手に中村、加藤、レアードの3本のホームラン、藤原恭大のプロ初ヒットなどもあり勝利。しかし、開幕4試合連続ホームランを打った新加入のレアードや中村、加藤などの好調も虚しく4月11日には最下位転落。そこから息を吹き返し、5月中盤には2位にまで順位を上げた。7月4日、阪神タイガースから石崎剛を高野圭佑とのトレードで獲得[86]。7月14日、レオニス・マーティン外野手の獲得を発表、途中入団ながら14本塁打を放つなど結果を残した。9月24日の西武戦に敗れ、目の前で優勝を決められた。楽天に僅差で躱され4位で終了。2位のソフトバンクに17勝8敗大きく勝ち越したが、優勝の西武には8勝16敗1分、最下位のオリックスには9勝15敗1分に負け越した。荻野貴司がベストナイン、ゴールデングラブ賞を初受賞した。前述のホームランラグーン新設により、チーム本塁打は、前年の78本から158本へと大幅に増加した。, プエルトリコで行われるウインターリーグに岡大海、山本大貴、安田尚憲の三選手を、台湾で行われるウィンターリーグに鎌田光津希、原嵩、松田進の三選手を派遣。, オフに福浦和也が引退し、11月1日、来期より二軍ヘッドコーチ兼打撃コーチに就任することが発表された。また、同じく引退した阿部和成が二軍サブマネージャー、伊志嶺翔大が一軍走塁コーチ兼打撃コーチ補佐兼外野守備コーチ補佐に就任した。荻野貴司、益田直也がFA権を行使せずに残留するも、鈴木大地は楽天にFA移籍した。涌井秀章も金銭トレードで、酒居知史もFAの人的補償でともに楽天に移籍した。, いっぽうドラフト会議では「令和の怪物」と評された佐々木朗希を4球団競合の末獲得に成功。補強にも積極的に動き、楽天から美馬学、ソフトバンクから福田秀平をFAで獲得。一度のオフにFA選手を2人獲得するのは球団初のことである。楽天からは他にもFAの人的補償として小野郁を、また、自由契約となった西巻賢二とフランク・ハーマンを獲得している。さらに、元広島のジェイ・ジャクソンも獲得した。, また、元ドミニカ共和国空軍のホセ・アコスタ、元BCリーグ富山のホセ・フローレスを育成選手として獲得した。, シーズン終了後の12月1日付で球団社長の山室晋也が退任し[注 22]、オーナー代行の河合克美が球団社長を兼任する人事が執行された[88]。, 1月19日、1971年の球団買収以来オーナーを務めた重光武雄が大韓民国・ソウル特別市に於いて老衰のために死去(98歳没)[89]。, 3月10日、当時は予定通り3月20日に開幕する予定であり、三木亮と平沢大河がコンディション不良であったことから前年まで阪神タイガースに在籍していた鳥谷敬を獲得[90]。背番号は00。, 3月24日、球団の株主総会と取締役会において、1月に死去した重光武雄の次男で、3月18日に親会社ロッテホールディングスの会長職に選任されたばかりの重光昭夫が球団の代表取締役会長オーナーに就任することを正式に承認した。重光は前述の通り、2018年2月に自身の不祥事でオーナー代行職から一旦退任していたため、2年ぶりにフロントへの復帰となった[91][92]。, 6月28日、対オリックス戦において6連勝。新型コロナウイルスの影響による変則日程で、2020年の開幕直後は同一カード6連戦が組まれていたが、同一カード6連勝はプロ野球史上初となった[93]。しかし8回を任されていたジャクソンが7月9日に突如退団し、翌10日に大麻所持容疑で逮捕された。また開幕から新戦力の福田秀平を怪我で欠く中、シーズン中盤にも故障者が続発し、レアードや種市篤暉、松永昂大、ハーマンなどが相次いで離脱。その中で9月7日に読売ジャイアンツから香月一也とのトレードで獲得した澤村拓一[94]がシーズン終盤にブルペンを支えた。厳しいチーム事情の中でも首位ソフトバンクとの直接対決では大きく勝ち越しており、9月末の段階で首位ソフトバンクに迫る勢いで優勝争いを演じていた。10月9日までは11勝5敗1分だったが、10月10日から11月4日まで6連敗し、最終戦の11月5日に勝ち、ソフトバンク戦は12勝11敗1分だった。最下位オリックスには18勝5敗1分と大きく勝ち越したが、3位西武には9勝15敗、4位楽天には8勝15敗1分と負け越した。, しかし10月4日、岩下大輝とチームスタッフ1人が新型コロナウイルスに感染していたことを発表[95]。それを受けて、1軍の監督やコーチ、選手、スタッフ全員に対して行われたPCR検査の結果、荻野貴司、角中勝也、清田育宏、菅野剛士、鳥谷敬、藤岡裕大、三木亮の7人も新型コロナウイルスの陽性判定を受けたことを同月6日に発表[96]、岩下の濃厚接触者も含めてこれら全員が1軍登録を抹消される緊急事態となり、さらに21日の西武戦でマーティンが左足首を捻挫して負傷離脱。それでも10月8日には首位ソフトバンクに対してゲーム差0に迫ったがその後は失速し、一方でソフトバンクは投打が安定して10月10日から22日まで破竹の12連勝と波に乗り、一気に離されてしまった。22日に自力優勝が消滅し、27日のソフトバンク戦(PayPayドーム)に敗れ、ソフトバンクの優勝が決まり、昨年に引き続き目の前の優勝を決められた。ソフトバンク優勝決定後、11月に入り西武との2位争いとなり一時的に3位に転落するが、11月8日に西武との直接対決を制し2007年以来13年ぶりに2位となり、CS進出を確定させた。CSではエラーをきっかけに流れを掴まれソフトバンクに2連敗し、ソフトバンクがアドバンテージの1勝を含めて3勝としたため敗退した。, 12月、庄司こなつの退団後も残っていたイベントMCのまさなり・ゆき・みもも、3人が揃って退団。, 1月15日、清田育宏が昨年の札幌遠征において球団ルールに反する不適切な行動を行い、これに関する虚偽報告を行っていたことなどが判明し、清田に無期限謹慎(無期限活動停止)、球団本部長の松本尚樹に厳重注意したと発表した[97]。, ※1974年は阪急とのプレーオフを制して優勝(併せて、前・後期通算での年間勝率首位=.580を達成)。以来連続46シーズン、年間勝率首位がなく、12球団で最もリーグの年間勝率首位から遠ざかっている球団である。また、これは横浜DeNAベイスターズの大洋ホエールズ時代から続いた1961年 - 1997年の37年間を超え、NPB最長記録となっている。, 以前のニックネーム「オリオンズ」は星座のオリオン座が由来。球団創立以来1991年まで使われた。チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星が当時の親会社・毎日新聞社の社章でもあることから付けられた。, 大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも「以前、毎日新聞は『大毎』(大阪毎日新聞の略称)と呼ばれ親しまれていた。今でも自分は毎日を大毎と思っている。何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。しかし実際には「プロ野球には我が大映が先んじて進出しているのだから、後発の毎日よりも前に大映を示す“大”の文字が入るのが当然である」という永田の思惑によるところが大きかったといわれる。, 毎日新聞がオリオンズの経営から手を引いたのちも、球団誕生に合わせて改称した喫茶店「茶房オリオンズ」が毎日新聞大阪本社ビルに(ビル建て替えに伴う移転を乗り越えて)存在し、名残をとどめていたが、2014年4月25日限りで閉店した[98][99]。閉店に際して開かれた「感謝の集い」には、千葉ロッテ球団からも集いに対する祝電が寄せられた[98]。, 1992年から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。しかし中日の略号「D」と被るために、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、綱島理友が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。ただし英語における名詞形のmarineには「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でも海兵隊の文字が散見される。オーナー企業であるロッテは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連はない。なお公募の際、「パラダイス」票が最終選考まで残った。また変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉にちなんで、有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『すすめ! 投手陣は伊良部・ヒルマンの抜けた穴は大きかったが、前年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木が初の二桁勝利、薮田安彦が初の規定投球回数をクリアするなど奮闘。しかしストッパー成本が大怪我でシーズンを途中リタイア。野手では新人の小坂誠が新人王に輝き、投手から打者に転向した福浦和也が台頭したが、外国人は長打不足、初芝・堀も不振。また、前年まで多くのマスクを被っていた定詰雅彦・田村藤夫が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価された清水将海が開幕戦でスタメンマスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。結局投打に渡り駒不足で最下位に終わる。, 近藤監督での2年目を迎え、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰するも「投手陣の踏ん張りがなければ上位食い込みは難しい」と言われた[31]。4月は11勝5敗の首位だったが、ストッパーの河本が肩の故障で離脱しセットアッパーの吉田篤史も不振で離脱するとリリーフ陣が崩壊。日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は後述)。ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率.358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。連敗脱出後はリリーフとして新外国人のブライアン・ウォーレンが加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率.462。借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。また、総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ.271。チーム防御率リーグ2位3.70)でありながら最下位となった。近藤は、シーズン終了後の監督退任会見で「今度監督をやる機会があれば、もっと強いチームでやりたい」と発言しロッテを去った。, 1999年には山本功児が二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線、黒木知宏頼みの投手陣を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(その黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。1999年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山がFA権を行使する意向を球団に伝え、結果として自由契約という形で横浜ベイスターズに移籍した)[32]。また90年代初期から中期を支えたWストッパーの河本がトレード志願でジャイアンツに移籍、成本も怪我で満足な投球ができず2000年に戦力外通告を受け退団した。しかし、この時期にドラフトで獲得した清水直行、渡辺俊介、今江敏晃、西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。, 2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌年の春季キャンプ中に「野球に対する情熱が無くなっているのに気づいた」と残し、開幕を待たずに退団している[33]。, このシーズンは特に秋に好成績を収めており、8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。, 2003年オフ、韓国・三星ライオンズから李承燁を獲得。山本は5年間監督を務めたがすべてBクラスに終わり、2003年に解任された[34]。, バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。3者連続ホームランで逆転し、西武に勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0.5ゲーム差で4位が確定。プレーオフ進出を逃した。しかし、シーズン全体では勝率5割を記録した。, 今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて「マリンガン打線」と呼ばれ、4番にサブローを起用する打線が機能する。サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦では24勝11敗で優勝。「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。8月17日の対埼玉西武ライオンズ戦に勝ち、10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス戦で勝利し、プレーオフ進出と10年ぶりのAクラスを確定。9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージで西武、第2ステージでは2戦先勝するも第3戦、第4戦と敗北。第5戦でも2点先制されるが、8回表に里崎智也の劇的な2点タイムリーツーベースで逆転。その後もリードを保ち、福岡ソフトバンクホークスを破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした[注 9]。10月22日からの日本シリーズでは、第1戦(千葉マリンスタジアム)は試合途中から、選手全員が全く前が見えないほどの夥しい濃霧にグラウンド全体が包まれ、7回裏1死時点で試合続行不能になるほど霧が濃くなり、コールドゲームとなる珍事が起きている。その後も阪神を2002年の巨人以来3年ぶり、球団史上初となるストレート4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。11月10日から東京ドームで行われた第一回アジアシリーズに出場。決勝で韓国の三星ライオンズを5-3で下して勝利し優勝している[注 10]。二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し優勝しており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、同年の阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。また、その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。この年、渡辺俊介(15勝)、小林宏之(12勝)、ダン・セラフィニ(11勝)、清水直行(10勝)、久保康友(10勝)、小野晋吾(10勝)が2ケタ勝利を挙げた[注 11]。また久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の荒巻淳(26勝)・榎原好(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。, 小坂誠が巨人へ金銭トレードされ、李承燁が巨人、セラフィニがオリックスへ移籍。交流戦は2年連続での優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。オフには、福岡ソフトバンクホークスを退団したフリオ・ズレータを獲得。, 3月24日の開幕戦(千葉マリンの対北海道日本ハムファイターズ戦)が降雨コールドで引き分け[注 12]。翌日も延長12回で引き分け[注 13]。投手陣は、中継ぎ陣が藤田宗一の防御率10点台を超える乱調や、小林雅英の度重なる救援失敗により事実上YFKが崩壊したが、38HPで最優秀中継ぎ投手賞を獲得した薮田安彦がシーズン終盤に抑えに回り、2年目の川崎雄介と新人の荻野忠寛が活躍し、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして成瀬善久が16勝1敗、防御率1.817で、最優秀防御率と最優秀投手の2冠を獲得する大活躍を見せた。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。一方野手陣は福浦和也、今江敏晃、フリオ・ズレータの故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、早川大輔の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズ1stステージではソフトバンクに2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。, 先発投手陣が揃って不調に陥り、さらに開幕直後に捕手の里崎智也・橋本将・田中雅彦が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4.5ゲーム、3位の日本ハムと0.5ゲーム差の4位となっている。チーム防御率はリーグ最低となった。野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。12月21日、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。オフに井口資仁を獲得。, ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。5月21日、淑徳大学とパートナーシップ包括協定を締結。シーズン中に、バレンタインの監督退任騒動が浮上。9月26日に「死刑」などのフロントを中傷するゲーフラを掲げた一部ファンに対し西岡剛がヒーローインタビューにて中傷行為を止めるように要請した。しかし9月27日にこれまでロッテの応援を引っ張ってきた(詳しくはマリーンズファンを参照)外野応援団・MVPが西岡の応援を妨害し、外野応援団・MVPに反発したファンから帰れコールが起こるなど球場は騒然としてしまった。これがきっかけで外野応援団・MVPは解散することになりスキンヘッドランニングなどのチャンステーマ、旧応援歌(一部は2010年も使われた)が廃止されてしまった。これら騒動の影響もあってチームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終了。バレンタインの後任にはヘッドコーチの西村徳文が監督に昇格した。オフには韓国・ハンファ・イーグルスからFA宣言した金泰均を獲得。, 序盤はルーキー荻野貴司や金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴と唐川侑己の長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2.5ゲーム差、4位の日本ハムと0.5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。クライマックスシリーズのファーストステージでは、西武に2連勝。ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年・南海ホークス以来37年ぶりとなった[注 14]。日本シリーズでセリーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下して5年ぶり4度目の日本一となり、パリーグで初めてリーグ優勝せず[注 15]に日本シリーズを制した球団となった[注 16]。3位からの日本一は史上初めてである。11月13日、日韓クラブチャンピオンシップではSKワイバーンズを3-0で降して日韓王者に輝いた。12月27日、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・QVCジャパンによる命名権導入に伴い、名称を「QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。オフには小林宏之が阪神へ、西岡が大リーグ・ミネソタ・ツインズへそれぞれFA移籍している。また、堀幸一が現役続行を目指して退団するも、他球団からのオファーがなく現役引退。, 3月11日に発生した東日本大震災では、本拠地・QVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが周辺が液状化現象を起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている[35]。また開幕が当初予定の3月25日から4月11日に延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり[注 17]、6対4で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。5月19日の対中日戦(QVC)の敗戦で勝率5割として[36]以降は借金生活となり、6月8日の対阪神戦(QVC)の敗戦で最下位に転落[37]。交流戦は8勝14敗2分の10位[38]。6月29日にはサブローが工藤隆人プラス金銭で巨人にトレードされる[39]。前半戦は借金1の3位で折り返す。しかし後半戦に入ると連敗するなど低迷し、9月7日の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝を達成[40]するが、終盤戦に入っても低迷は続き、9月29日には9年ぶりの11連敗を記録[41]、翌日対日本ハム戦(QVC)に勝利し連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラスが確定[42]、10月9日の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで最下位が確定。前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて[43]。最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33.5ゲーム、3位西武と13ゲーム差、5位楽天と10ゲーム差[44]。得点は球団史上最低記録となる432[注 18]、チーム本塁打は46本で球団史上最少で、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。この年の本塁打王の中村剛也(西武)の48本を下回り、1チームのチーム本塁打数が個人の本塁打数を下回るのは1959年の近鉄以来の記録となった[注 19][45]。金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している[46]。12月23日、この年6月に巨人に移籍したサブロー[注 20]がFA移籍で半年でロッテに復帰[47]。, 開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど[48]、序盤から首位争いをし5月11日に対ソフトバンク戦(QVC)に6対4で勝利し首位浮上[49]。交流戦は12勝7敗5分で3位。前半戦を42年ぶりの首位で折り返した[50]。しかし後半戦は7月31日の対日本ハム戦(QVC)に5対3に敗れ、2カ月半ぶりに首位陥落し[51]、8月31日からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり[52]、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、10月3日に対オリックス戦(京セラD)に2対1で敗れたことで2年連続のBクラスが確定し[53]、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3.5ゲーム差の5位に終わる。角中勝也が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった[54]。二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている[55]。益田直也が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。10月8日、西村が監督退任[56]、10月15日にはヘッドコーチの高橋慶彦ら8コーチも退団[57]。10月18日、監督に伊東勤[58]が就任。, 5月9日に7年ぶりの8連勝で首位に立ち[59]、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わった。7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると6日には4連敗で2位に[60]、前半戦を2位で折り返した[61]。7月27日には当時13連勝中だった田中将大相手に9回表終了時点でリードを奪うもその裏に守護神益田直也が失点、サヨナラ負けを喫し田中の連勝は続いた。

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