「よっ。鶴丸国永だ。俺みたいのが突然来て驚いたか?」 「……わっ! ははは。驚いたか? ああ、いやいや、すまんすまん。」 「予想外だったか? ガラ空きだぜ!」 「紅白に染まった俺を見たんだ…あとは死んでもめでたいだろう。」 ãã御ç§æ°è¤æ£®ç¥ç¤¾ä»å°è©ä¼éæ°æ治天çä»å°ä¼é家ã«ä¼ããæ¥æ´ï¼ç«è丸ï¼ç°èª¬å®éä¸æã®ææå 極め 京透 法量 縦 8.5 cm ・ 横 8.6 cm ・ 切羽台厚 0.5 cm ・ 重量 71.0 g 正真保障 販売する刀剣および刀装具は 全て正真であることを 保証いたします。 返品保障 国内でご購入した 商品は配達後3日以内であれば, グラブル(グランブルーファンタジー)に登場するコラボイベント武器のひとつ、水属性SSR刀「鶴丸国永」の性能評価。奥義・スキル・ステータスなどの武器データ、最終上限解放素材の情報を掲載。入手時や編成の際の参考にどうぞ。 鶴丸国永(刀剣乱舞)とは、「刀剣乱舞-online-」に登場する太刀の刀剣男士である。 イラストレーター:Izumi / CV:斉藤壮馬 どうすれば驚くような概要ができるかな 『鶴丸 国永だ。 平安時代に打たれてから、主を転々としながら今まで生きてきた。 刀剣乱舞 とうらぶFamily Mart ファミリーマート 限定西陣織 名刺入れ 鶴丸国永ver【内容】鶴丸国永の名刺入れ1点【コメント】刀剣乱舞のグッズを集めておりましたが、グッズを整理するために今回出品致します。こちらは、写真を撮る時のみ触りました。. 鶴丸 指定情報 種別 御物 名称 山城国国永御太刀(名物鶴丸) 基本情報 種類 太刀 時代 平安時代 刀工 国永 刃長 78.63 cm、茎長 18.18 cm 反り 2.73 cm、茎反 0.3 cm 先幅 1.52 cm 元幅 2.73 cm 先重 0.39 cm 元重 0.67 但由于鹤丸国永的制作者五条国永是于天喜年间(1053-1058)在五条地区生活,与平维茂的活跃时期不一致。因此被认为是传说。 因此被认为是传说。 大掾繁茂后出任出羽城介(即秋田城介)一职,永承六年(1051年),大掾繁茂与担任陆奥守的藤原登任于鬼切部之战中,被地方大族安倍赖时击败. éåå ±å - ã«ã¼ã«éåã®ä½åã¯ã³ã³ããå ±å. 毛利氏が義昭を受け入れないことは信長とも約束されていたことで、それを破ることは重大な背信行為であった[57]。だが、義昭の下向は先の衝突以降、浦上氏の領国という緩衝地帯がなくなった両者の軍事的緊張が高まっていた中で、決定的な亀裂を生じさせた[51]。義昭自身は信長が宗景に備前・播磨・美作の統治を認める朱印状を出したことや、宗景が播磨へ逃亡して以降の対応から、信長の輝元に対する「逆心」は明確であると述べており、同盟は既に破綻していると考えていた[51]。, 輝元は信長と義昭との間に揺れ動いた末、4月に義昭の要請に応じ[58]、5月7日には反信長として立ち上がり、13日に領国の諸将に義昭の命令を受けることを通達し、西国・東国の大名らにも支援を求めた[59]。これにより、輝元は信長との関係を断ち、織田氏との同盟も破棄することとなった[58]。輝元自身も信長の領国への介入から疑心に駆り立てられ、信長との関係修復が困難であると判断したと考えられている[58]。, 輝元は義昭の庇護を決めると、鞆に御所を提供して保護した。輝元に庇護されていたこの時期の室町幕府は、「鞆幕府」とも呼称される[60]。義昭を筆頭とする鞆幕府は、かつての奉公衆など幕臣や織田氏と敵対して追われた大名の子弟らが集結し、総勢100名以上から構成され、信長も無視できない勢力であったという指摘もある[60]。輝元自身も鞆幕府において、義昭から将軍に次ぐ地位たる副将軍に任じられている[61][注釈 1]。このとき、輝元は義昭から足利氏の家紋たる桐紋(かつて信長にも与えられた)も与えられた[62]。, 輝元が義昭を鞆において庇護することを決めたことは、諸国の情勢に大きな変化を与えた。 鶴丸国永がイラスト付きでわかる! 平安時代の刀工・国永作の日本刀(太刀)。 曖昧さ回避 +刀剣乱舞に登場する刀剣男士。→鶴丸国永(刀剣乱舞) +しんけん! 主. その日、鶴丸は朝目覚めた時から身体の調子がおかしかった。 審神者の考えで通常通り四季を刻むこの本丸の空気は、夏を終えて疾うに秋の気配である。 なのにその涼しさとは裏腹に身体が妙に熱い。 義昭は輝元の庇護を受け、反信長勢力を糾合し、幕府の復興に尽力した。, 4月、輝元が義昭の庇護したのと同時期、織田氏と大坂の石山本願寺と和議が敗れ、戦闘が再開された。石山本願寺は紀州の雑賀衆の援軍も得て、初戦は織田軍に勝利を収めた。, 同月、輝元と同様に信長と同盟関係にあった北国の上杉謙信が、本願寺との和平交渉を開始し、5月中旬に講和を成立させた[63]。謙信が本願寺と講和した背景には、義昭が輝元の庇護下で鞆に落ち着き、義昭自身も謙信に幕府再興の援助を求めたからだとされる[63]。, 謙信と本願寺との講和によって、毛利氏、上杉氏、本願寺による三者同盟が結成され、第三次信長包囲網が築き上げられた[64]。5月になると、輝元は謙信に上洛を呼びかけ、6月に謙信は隆景に対して、来春には上洛するように伝えている[64]。また、義昭も6月に謙信と甲斐の武田勝頼に使者を出し、輝元と力を合わせて信長を討つように命じている[65]。, 本願寺は初戦に勝利を収めていたが、5月に信長自らが出陣すると劣勢となり、やがて石山を水陸から織田軍に包囲された。本願寺は輝元に支援を求め、輝元も反信長同盟が崩れることを危惧し、救援を決めた[65]。輝元は本願寺救援のため、村上水軍などからなる毛利水軍を派遣し、織田軍の海上からの包囲を破ろうとした[65]。, 7月13日、毛利水軍は織田水軍を大阪湾木津川河口(現在の大阪市大正区に位置する木津川運河界隈)で破り、本願寺に兵糧や武器など物資を運び入れることに成功した(第一次木津川口の戦い)[58]。この戦いで織田水軍は毛利水軍の焙烙といった火器に対抗できず、真鍋貞友ら水軍の将が多数討たれるなど大きな損害を被り、輝元は強力な海軍力を背景に瀬戸内海一帯の制海権を保持した。, 尼子軍は因幡国内において孤立し、天正4年(1576年)5月頃に若桜鬼ヶ城を退去し、尼子氏の勢力は因幡国から撤退した。, 天正5年12月、織田方の羽柴秀吉が宇喜多直家の支城である播磨国上月城を攻略すると、尼子勝久と幸盛がその城に入った[66]。, 天正6年2月中旬、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方した[66][67]。輝元はこれを好機とみて、4月に元春・隆景らに大軍を以て播磨に進軍させ、自身も備中高松城に入った。その後、同月18日(5月24日)に毛利氏は尼子氏残党が籠城する上月城を包囲する[68]。, 5月、織田方の秀吉が荒木村重らと共に1万の軍を率いて上月城の救援のため、高倉山に布陣した[69]。だが、6月に毛利氏は高倉山で織田軍を破り、書写山まで撤退させ、上月城は孤立無援の状態になった[70]。, そのため、7月5日に籠城していた尼子氏残党は降伏し、毛利氏は城兵の助命を条件として、尼子勝久及び弟の氏久は切腹させ、他多数の者を処刑した。山中幸盛は許され、輝元の在陣する備中高松城へ連行されたが、その途中で殺害された[71][注釈 2]。, 上月城の戦いの勝利により、輝元は安芸・周防・長門・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見のみならず、讃岐、但馬、播磨、豊前の一部を領有し、元就の時代をはるかに上回る領土を支配する大名となった[71]。また、輝元は足利義昭を擁して鞆幕府を庇護することで、「副将軍」としてその名を天下に知らしめ、陸海の戦闘で織田氏に勝利し、信長に対抗しうる最大の勢力となった[71]。, 天正6年10月、摂津国を支配していた荒木村重が織田氏に反旗を翻した[71]。輝元は6月の時点から村重に調略を進めており、それが成功したのであった[71]。また、村重は信長から摂津の支配のみならず、播磨の諸勢力との取次も任されていた[71]。, 村重の離反は播磨の諸勢力が毛利氏に同調する契機となり、御着の小寺氏、志方の櫛橋氏、野間の在田氏、長水の宇野氏らが毛利氏側に付いた[72]。村重のもとには黒田孝高が説得に赴いたが、逆に幽閉されている。これにより、輝元は播磨を混乱状態に追いやり、その影響力を播磨に浸透させた[72]。, だが、輝元には宇喜多直家の存在という誤算もあった。播磨の諸勢力の中で、龍野の赤松広秀や置塩の赤松則房も毛利氏に味方したいと申し出たが、直家が反対したため、両者は宇喜多勢が攻略することとなった[72]。直家が反対した理由に関しては、赤松氏の領土が宇喜多氏の領土に隣接しており、その支配下に置いておきたかったからだとされる[72]。, 11月4日、輝元と本願寺に対して、朝廷から信長と講和するよう正親町天皇の勅命が下された[73]。信長としては村重を再三説得するための時間稼ぎであったが、両者はこの勅命による講和を拒否した[73]。, このような状況下、輝元自らが軍勢を率いての上洛が計画されるようになった[72]。義昭は村重の調略に関与していたが、輝元に11月24日付の元春宛書状でこの機を逃さずに上洛するように命じている[72][73]。このとき、同盟関係にあった武田勝頼からも、すぐさま上洛を求められている[72][73]。, 12月、輝元は出陣を決意し、毛利氏有利のこの好機に乗じて上洛しようとした[72]。そして、輝元出陣の日は天正7年1月16日と定められ、諸将に下令された[74][75]。輝元はそれに伴い、武田勝頼に徳川家康を攻撃し、織田氏の兵力を引き付けるよう要請している[75]。, だが、輝元の上洛計画は期日を過ぎても実行には移されなかった[76][75]。毛利氏有利の状況下にあるにもかかわらず、上洛計画が実行に移されなかったのは、大友義鎮に唆された市川元教や杉重良による謀反が勃発し、毛利氏内部が動揺していたことにあった[76][75]。また、備中・美作の国人領主に対して、信長の調略の手が伸びていたこともあった[76]。, 輝元に対して、その上洛を反対したのは隆景であったと考えられている。輝元が祖父・元就の支配地域以上の領域を手に入れ、将軍・義昭を庇護する副将軍として有頂天となり、 デジタル版 日本人名大辞典+Plus - 五条国永の用語解説 - ?-? ããã®é¶´ä¸¸ã¨åºä¼ãã話ã ãããã第ä¸æ¬ä¸¸ã¨ç´¹ä»ãããæ¤å¦ã«ã¯ãæå
¥ãé¨å±ããªãã㰠鶴丸ããããæ§åããªãããããã¼ãã¼ãã®ã¾ã¾ã§ã ç¾ããçµµã§æããã骨ã®ããã¹ãã¼ãªã¼ãã©ããã楽ãã¿ãã ããã .ある本丸の廊下を、一振りの真っ白な青年がドタバタと走り抜けていく。「誰だ!廊下を走っているのは!」とへし切長谷部の怒号をも気に止めず、真っ白な青年は審神者の部屋へ転がり込む。「お、お … 商品名 刀剣乱舞 鶴丸国永(つるまるくになが) 太刀(模造) 風 コスプレ用アイテム セット内容 : 太刀(模造)・鞘 使用素材 : PVC・木材 サイズ情報 : 約100cm お届けまでの日数 : 通常10-15営業日(土日祝は除く)で発送となります。, nihili84: “鶴丸最近綺麗〜よりかっこいい〜って気持ちになってきた ” Alexandra Graves Touken Ranbu 刀剣乱舞 Манга Аниме Аниме Арт Мальчики Из Аниме Манга Иллюстрации Рисунки Лисы Светлые Волосы Олень Картины 鶴丸のくさずりに続き鶴丸の本体(模造刀)いきたいとおもいます!毎度お馴染み雑い感じで紹介していきます!今日できたのはここまで!刀身はなにで作ろうかまだ悩んでま…, 鶴丸国永(刀剣乱舞)がイラスト付きでわかる! 『刀剣乱舞-ONLINE- 』に登場する刀剣男士の一人。 刀について詳しくは→鶴丸国永を参照。 プロフィール |^名前|鶴丸国永| |^種類|太刀| |^刀派|なし| |^刀工|五条国永| |^身長|177cm. [海]鶴丸国永のプロフィール 様々な使い手のもとを転々とし、その美しさを絶賛されてきた巫剣。 店番をすれば、彼女自身の美しさで長蛇の列ができることも。 美しさに強いこだわりを持つ一方で「恩返し」に異常な執着を見せ、なんでもかんでも恩返しと繋げて考える癖がある。 1 鶴/丸/国/永 鶴丸さんと呼ぶきみが好きだった もう暫く間が空いてしまったが、何とか仕事も落ち着いてあの頃の君の優しい言葉を何度も思い出す日々が続く。きっと君は他の誰かと幸せになっているかもしれない、だがもしまだ俺のことを…もう一度あの声音で呼んでくれるなら、会い. 2020/03/24 - Pinterest で きりんちゃん さんのボード「鶴♡」を見てみましょう。。「刀剣乱舞 鶴丸国永, イラスト, つるいち」のアイデアをもっと見てみましょう。 刀剣は時代によって異なる「戦い方」や「用途」に合わせ、少しずつ姿や形状が異なってきた歴史を持ちます。この刀剣年表では、平安時代~明治時代以後までの刀剣に関する「有名な刀工」や「有名な刀剣」などを年表に沿ってご紹介しています。 「鶴丸国永」 にキーワードが一致するページ: 100件以上のアイテムがヒットしました。1ページ目を表示しています 1ページ目を表示しています きみは恋愛対象外【刀剣乱舞】 ( 10点, 9回投票 ) "鶴丸国永成り代わり(ブラック勘違い)は保護される。" is episode no. åã¹ããã¤ã©ã¹ãä»ãã§ãããï¼ ãã©ã¦ã¶ã²ã¼ã ãåå£ä¹±è-online-ããåä½ã¨ãã2.5次å
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容ãã確èªãç解 三成は襲撃を逃れ、伏見城内の自邸に逃げ込んだ後、輝元と連絡を取るようになった[140]。その間、三成は輝元に対して、大阪の喉元を抑えるため、尼崎方面に陣を構えるように要請している[141]。, 結局、この事件は三成が佐和山城で隠居することで解決したが、この処分の決定には輝元と、同じく五大老の一人・上杉景勝による調整があった[142]。無論、輝元と景勝の両名二人で決定できるわけではなく、五大老筆頭たる家康との調整も必要であった[142]。, 同月21日、輝元は家康と起請文を交わして、そのなかで家康を兄、輝元を弟とし、事実上屈服した[142]。だが、三成が失脚すると同時に、家康は自身と敵対する大名への勢力削減を狙い、その矛先は輝元にも向けられた[143]。, 4月、家康は三成が押し切った毛利氏所領に関する決定の見直しを行い、秀吉の遺命という大義名分を掲げ、秀元に長門及び周防の一部を分配するよう輝元に迫った[144]。だが、輝元は自己の権力強化を目指していたため、家康の強制とはいえ、それは受け入れられないことであった[144]。, 6月、秀元には長門、周防吉敷郡、安芸、周防、備後の旧穂井田元清領が与えられ、広家の所領をそのままに、隆景の遺領は輝元に返還されることになり、輝元・秀元・広家ともにこの案を受け入れた[145][146]。秀元に与えられた領地は伯耆・出雲・隠岐の三国の石高には若干及ばなかったが、秀元は父の遺領を引き継げたため納得し、毛利家中における秀元の処遇問題は解決した[147]。, しかし、毛利氏の内部には、家康が家中の問題に介入し、それを許したという遺恨が残った[147]。輝元自身もまた、自らを頂点とする一元的な支配体系の構築を目指してきただけあって、家中の問題を自分の思い通りにできなかったことを屈辱に感じた[147]。そして、輝元は家康の権力増大を食い止める必要性を感じ、それが翌年の決起に繋がっていった[147]。, 慶長5年(1600年)5月、家康は上杉景勝が上洛を拒否したことを理由に、これを秀頼に対する謀反として、会津へと出兵した[147]。家康が前年9月に大坂城に入城して以降、豊臣政権は家康が運営しており、輝元も景勝討伐に対して賛同せざるを得なかった[147]。とはいえ、輝元は景勝ととも石田三成襲撃事件の解決を2人で調整して以降、強く結びついていたと考えられている[143]。, 6月16日、家康は諸将を引き連れて会津へと出陣したが、輝元はその直前に広島へと向けて帰国した[147]。輝元は広家と恵瓊を出陣させたが、恵瓊は三成や大谷吉継と会談し、家康に対する決起を決めた[148]。, 7月、遂に三成が挙兵した。この時、三成は吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。輝元も恵瓊の説得を受けて、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾する。そして、輝元は7月12日付の書状で五奉行のうち前田玄以、増田長盛、長束正家から上坂を求められた[149]。, 7月15日、輝元は三奉行からの書状を受け取るとすぐ広島を出発し、7月19日には大坂城に入城した[150]。醍醐寺三宝院門跡・義演の記した日記『義演准后日記』7月19日条よると、その兵力は6万であったという[150]。それより2日前の17日、秀元は家康が居を置き政務を執っていた大坂城西の丸を占拠しており、城内から家康の留守居役を追い出していた[150]。大坂の徳川氏勢力の動きを封じ、秀頼を手中に収めることは西軍決起の計画の最重要行動の一つであったが、これは輝元の判断なしで秀元が行える行為ではなく、輝元は17日の時点で在坂していたか、あるいは事前に秀元に対して指示を出していたことになる[150]。, 輝元は大坂城に入城後、諸将から西軍の総大将に推挙され、盟主として軍勢の指揮を執っていた[36]。だが、関ケ原の戦いの終結まで城から出陣することはなかった[151]。, 九州に向けては、当時広島城に滞在していた大友吉統を吉統の旧領地である豊後国に派遣した。大友軍は東軍の黒田家や細川家の九州留守居軍と戦闘を行う。また、西軍方の毛利吉成(もとは森氏で、輝元の毛利氏とは別族)が伏見城の戦いでの損害により兵力を欠くこともあり、黒田方から防衛するためとして輝元の旧領であった豊前国の吉成領を占領する。, また、蜂須賀至鎮が東軍に参陣したことから、その父・家政の身柄を押さえ、蜂須賀家の領国阿波徳島城を毛利家の軍勢に占領させる。東軍方で領主不在であった伊予国の加藤嘉明領と藤堂高虎領では、故・小早川隆景の旧臣であった国人を促し蜂起させる。加藤領には毛利軍が侵攻し交戦した(三津浜夜襲)。藤堂領で蜂起した国人は藤堂家に鎮圧されている。, 輝元は秀元と広家、恵瓊を出陣させ、毛利軍は伊勢国安濃津城を攻撃したのち、9月10日に南宮山に着陣した[151]。一方、同月1日に家康も江戸を出発して西上し、12日に岐阜に到着した[151]。, 輝元は大坂城にとどまっている間、家康の西上を阻止するために軍を南宮山に布陣させ、また離反者の情報を懸命に収集した[152]。西軍の大名には離反のうわさが飛び交っており、輝元は恵瓊からその報告を受けている[152]。だが、輝元は小早川秀秋が東軍に内通しているという報告も知らされていたが、最後まで対処できなかった[152]。, 一方、西軍が負けると判断していた吉川広家は黒田長政を通じて、毛利氏の本領安堵などの交渉を行った[153]。そして、9月14日には徳川方の本多忠勝や井伊直政が広家や福原広俊に対し、「家康が輝元を疎かにしないこと、領国をすべて安堵すること」を約束した起請文を提出している[153]。このとき、広家は毛利氏の諸将と協議せず、密約を結んだといわれている[153]。, 9月15日、関ケ原で西軍と東軍が激突したが、広家と秀秋の裏切りで西軍は敗北し、戦いは一日で終結した[154]。南宮山に布陣していた毛利の大軍勢は広家ら吉川軍に抑えられ、福原広俊が秀元の出馬を諫めたりしたため、傍観するほかなく、東軍と一戦も交えずに大坂に撤退した[154]。退却した毛利勢は輝元のいた大坂城には入らず、大坂市中に駐屯した[154]。, 西軍壊滅の報が大坂に届くと、大坂城内の諸将の間では主戦論と講和論が衝突した。輝元には秀頼を擁して、大坂城に籠城して戦うという選択肢が残されていた。また、大阪には無傷で帰還した毛利軍や、本戦に参加しなかった軍勢も多数存在した[154]。, 一方、家康は輝元に対して、17日に両者の良好な関係を望むとの書状を送り、大坂城からの退去を促した[154]。輝元もまた、19日に家康に返書を送り、所領安堵に関してどうなるかを聞いている[155]。9月22日付の起請文では、輝元が所領安堵を条件に、大坂城西の丸からの退去する旨を記している[155]。, そして、9月25日に輝元は所領安堵の起請文を受け取ると、秀元、立花宗茂、島津義弘の主戦論を押し切り、自ら大坂城西の丸から退去し、木津の毛利屋敷に入った[155]。その後、輝元は四国・九州の毛利勢も順次撤退させている。, 9月27日、輝元と入れ替わる形で、家康が大坂城西の丸に入城した。その後、大坂城では輝元の花押が押された書状が多数押収され、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、実際には総大将として西軍を指揮していたことが明らかとなった[156]。, 10月2日、家康は広家の説明が事実ではなかったことを理由として、輝元と交わした所領安堵の約束を反故にし、「毛利氏は改易し、領地は全て没収する」とした[156]。そして、家康は輝元を改易した上で、改めて広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした[156]。, しかし、広家は本家を見捨てることができず、10月3日に輝元が西軍の首謀者でないことを改めて弁解するとともに、周防・長門2ヶ国は輝元に与えるよう嘆願した[156]。井伊直政もまた、家康に起請文を破ることへの不義を訴えたため、家康も輝元の処遇を考え直した。, 10月10日、家康の命により、毛利氏の所領は山陽・山陰8ヶ国から周防・長門2ヶ国の29万8千石[注釈 5]に減封され、輝元が保持していた祖父以来の領地も多くが失われた(防長減封)[156][158]。結局、輝元が隠居することにより、秀就が周防・長門2ヶ国を安堵される形で決着し、毛利氏の改易は避けられた。, 同月[1]、輝元は剃髪し、法名を幻庵宗瑞(げんあん そうずい)と称した[1][159]。そして、嫡男の秀就に家督を形式的に譲り、秀就が初代の長州藩主となった。しかし、実際にはこれ以後も法体のまま、実質的な当主として藩に君臨し続けており、秀就との二頭体制が敷かれた[1][160]。, また、輝元は豊臣期末には自らを頂点とし、佐世元嘉、二宮就辰、榎本元吉、堅田元慶、張元至ら様々な出自を持つ5人の輝元出頭人が領国統治を主導するという、一元的支配を構築しつつあった[161]。だが、江戸時代になると、輝元が本国に在国し、一方の秀就は江戸に在国ということが多くなるという二頭体制により、江戸幕府との折衝が豊臣期よりも重要性が増した[161]。そのため、支配機構も変化を余儀なくされ、国許に在国して輝元を支える役職と、藩主・秀就に随従する役職の二元構造に移った[161]。, 慶長10年(1603年)8月、輝元は防長減封後、初めての帰国を許された[162]。その際、家康が輝元の帰国許可を出すにあたって、領内の任意の場所に居城を築くことを勧めた。, 同年10月4日、輝元は帰国し、周防国山口の覚王寺を仮の居所と定めた。輝元は領内の諸城の構築強化に努め、国境の築城も進んだため、居城の選定に着手した。減封後は暫定的に山口の高嶺城を居城としていたが、高嶺城は海辺に面していない点が近世城郭としては欠点であったため、別の候補地も探し、11月には防府の桑山を候補に選定したが、桑山は砂山で石垣を積み上げることが困難であり、節所もないことから決定には至らなかった[163]。その後、築城の有力候補として、阿武川の河口に位置し日本海にも面している長門国の萩に白羽の矢が立ったが、山陽道への往来が困難であり、位置が領内の北端に位置している点が欠点と考えられた。ここに至って、輝元は築城地の選定に幕府の意見を求めることとした[164]。, 慶長9年(1604年)1月、輝元は福原広俊を江戸に派遣し、広俊は既に江戸にいた国司元蔵と共にまず毛利氏の取次を務める本多正純のもとに赴き、防長両国の絵図を示し、候補である周防国山口の高嶺、防府の桑山、長門国萩の指月山のいずれを居城とすべきか意見を求めた。正純は国の地勢や方角について詳しく広俊に質問した上で比較し、暫定的居城の高嶺城では駄目なのかと問うと、広俊はその通りだと答えたため、桑山には節所がないこともあり、正純は所柄の良い指月山を勧めた。その上で、本多正信の意見も聞くように勧め、もし城地の選定について妨害する者がいたとしても我等父子がいるため安心するようにと述べた。その後、広俊と元蔵は本多正信、村越直吉に意見を聞き、最後に堅田元慶も連れて城昌茂に意見を聞いた結果、萩の指月山に居城を築くことに決まった[165][注釈 6]。, そして、輝元は萩城の縄張りを再三固辞する吉川広家に強く依頼して、2月18日に縄張初を行い[166]、築城がある程度進んだ11月10日に輝元は山口から萩城に移り住み居城とした。だが、萩城の普請は輝元の入場後も続けられ、翌年の慶長10年(1605年)には城の東門の取入、舟入の南喰違の石垣、北の浜辺の石垣等が完成する[167]。幕府は築城の規模を極めて小さくするように指示していたが、最終的に萩城は広島城に匹敵するほどの大規模な城郭となった[168]。, 慶長10年(1605年)7月2日、輝元は家中統制の必要もあり、熊谷元直と天野元信らを萩城の建築中の3月に発生した五郎太石事件に絡んで粛清した[169]。この事件は熊谷元直・天野元信ら両名と益田元祥との萩城の建設における争いが発端であるが、これにより城の建設が遅れたたほか、2代将軍となった徳川秀忠を祝うための輝元の上洛まで遅れることとなった。輝元は4月に上洛したものの、築城作業の遅延が幕府の不興を買うことを恐れ、6月に萩城に戻ると、7月には両名を追討するに至った。, 慶長15年(1610年)、領内検地の後、幕閣とも協議し公称高(表高)36万9,411石[注釈 7]に高直しを行ない、この表高は支藩を立藩した時も変わることはなかった。, 慶長19年(1614年)8月、方広寺の大仏鐘銘問題を契機として、江戸幕府と豊臣氏の緊張が高まった[170]。豊臣側は豊臣恩顧の大名に参陣を呼びかけたが、輝元をはじめ呼びかけに応じた大名はいなかった[170]。, 慶長19年(1614年)10月11日、輝元は家康が大坂城攻撃のため駿府を出陣すると、本多正純が家康の出陣を輝元に報じ、毛利氏領内での舟留めと不審な往来船の船改めを要請した。輝元は直ちに了承して舟留めと船改めを実行し、10月24日には幕府奏者番の城昌茂に報告するとともに、万事幕府奉行衆の指図通りに行動すると述べた[171]。しかし、九州から東上する船の内、どの船をどの程度の厳重さで舟留めすべきかが不明瞭であったため、輝元は駿府にいた宍戸元続と神村元種に対し、そのことを本多正純に入念に問い質し、可能であれば正純の墨付を入手するように命じた[172]。, 10月23日、家康が二条城に入ると、本多正純は10月24日に輝元へ奉書を送り、毛利氏の出陣を要請した[173]。, 11月3日、輝元は毛利秀元の留守を預かる毛利元鎮や椙杜元縁等に対し、秀元から出陣について申し下しがあれば留守衆の内の半分を東上させる一方で、椙杜元縁、西元由、三沢七郎兵衛など残る半分を留守居として長府に在番させ、もし万が一長府を維持できない変事があれば萩に引き上げること等を命じた[172]。さらに11月5日には、秀元領内の廻船を一艘残らず周防国三田尻に回航させること、船子も有り次第に用立てること等を命じている[173]。, 11月9日、周防国岩国の吉川広家は輝元の側近である井原元以に上方の情勢を伝え、輝元の出陣を促した。翌11月10日に輝元は益田元祥と山田元宗に国許の差配を任せ[注釈 8]、11月11日に萩を出陣し、周防国三田尻から海路で東上した。また、11月10日に徳川秀忠が伏見に到着すると、秀忠に従う酒井忠世、土井利勝、安藤重信は江戸にいる秀就と秀元に出陣を要請し、毛利氏は国許と江戸の両面から大坂城攻撃に加わることとなった[173]。, 11月14日夜、輝元は備前国児島郡下津井に、11月17日未明には摂津国兵庫に到着し[174][注釈 9]、直ちに兵庫到着を本多正信・正純父子や、家康の軍に従軍する平川孫兵衛に報じた。また、萩の益田元祥と山田元宗には、自身の兵庫到着や家康の住吉着陣、秀就と秀元も近日に大坂に到着することを報じ、不足する兵粮と軍用金を急ぎ送るよう求めている。さらに、輝元は従軍する家臣等に黒印の掟を布告し、陣中の法度を厳とした。, しかし、輝元は長い航海の疲労からか病にかかってしまったため、井原元以を家康の陣中に遣わし、病により軍務がままならないことを謝した。家康は近日中に西上する秀就に大坂城攻撃を委ね、輝元は国許の仕置きなどをするように答え、秀就の到着を急がせることを促した。, 11月21日、輝元は次男・就隆を名代として宍戸元続と共に家康に面会させ、同日夕刻には秀就へ西上を督促する書状を送った。また、11月22日には留守居の繁沢元氏、益田元祥、山田元宗に対し、秀就が到着次第帰国すると報じた。, この頃、家康は大坂城の堀の水位を減少させて攻撃しやすくするために、摂津国西成郡江口に堰を築いて淀川を塞き止め、淀川の支流の伝法川に舟橋を架けるよう、輝元に対して要請した。, 11月22日、要請を受けた輝元は留守居の繁沢元氏、益田元祥、山田元宗に使者を送って、普請に必要な兵糧と銀子を昼夜兼行で急送するように命じ、11月23日には後から東上した吉川広家と繁沢元景を江口に派遣し、工事を監督させた。さらに11月24日には、輝元自ら普請を督するために摂津国西宮へ陣を進めた。, 11月29日、本多正純は宍戸元続を通じて、家康の意向により河内国茨田郡守口へ陣を進めるように要請したが、輝元はそのまま西宮へ滞陣を続けた[注釈 10]。また、京都所司代の板倉勝重が江口普請場へ乱暴狼藉の禁令出すと、12月3日に輝元も現場の吉川広家、繁沢元景、毛利元倶に対し、西宮で他所の者と紛争し狼藉に及んだ者を捕らえた事例を伝え、よくよく乱暴狼藉を制止するよう命じた。, 12月6日、秀就と秀元が大坂に到着し、茶臼山の家康や西宮の輝元と面会した後に大坂に着陣した。秀就が到着したため、12月8日に家康は柳生宗矩を使者として輝元に衣服等を贈って滞陣の労を謝し、帰国して療養することを勧めた。, 12月10日、輝元は茶臼山の家康を訪ねて帰国の挨拶をした後に宍戸元続を伴って帰途につき、12月18日には周防国三田尻に到着した。輝元は秀元の命により東上する椙杜元縁に対して三田尻での面談を要請したが、元縁が病で面会に応じられなかったため、12月21日に輝元は秀元が吉川広家や福原広俊と衝突することを戒める訓諭を書状にしたためて元縁に与えた。, 一方、大坂に残る毛利軍はその後もさほど戦闘を行わないまま、12月20日には徳川方と豊臣方の講和が結ばれ、大坂冬の陣は終結した。, 慶長20年(1615年)4月17日、輝元は本多正純から届いた奉書によって、徳川方と豊臣方が手切れとなった際には摂津国の兵庫、西宮、尼崎付近へ出陣する準備を命じられると、直ちに秀元を毛利軍の先鋒とし、宍戸元続、毛利元倶、毛利元宣、毛利元鎮らを従軍させると決定した。, 4月18日、家康が二条城に入り、4月21日には秀忠が伏見城に入ったことで、本多正純は毛利氏への出陣を要請した。これにより、4月28日に先鋒としてまず秀元が出陣し、5月4日に秀就は吉川広正や宍戸元続をはじめとする毛利氏の主力を率いて周防国三田尻を出航したが、秀就は大坂城陥落には間に合わなかった。しかし、家康はそもそも毛利氏へ出陣命令を出すことが遅れたことが原因であるとして、これを不問としている。, 大坂夏の陣においては、内藤元盛(佐野道可)、烏田通知、幸田匡種、笠井重政など、豊臣方に加わった毛利氏旧臣がいたが、輝元の母方の従兄弟で重臣の内藤元盛が「佐野道可」と名乗って大坂城に入城したのは輝元、秀就、秀元、宍戸元続らの謀であるとする説がある[170][176][注釈 11][注釈 12]。, 大坂夏の陣後、5月に内藤元盛が京都郊外で捕縛されると、取調べの担当である大目付の柳生宗矩から輝元の命によって元盛が大坂城に入城した疑惑を問い詰められたが、元盛は独断で入城したと主張し、21日に自刃したことにより毛利氏への嫌疑は不問となった[179]。その後、内藤元盛の子である内藤元珍と粟屋元豊が家康に謁見し、元盛とは無関係であるとの釈明を認められて帰国したが、輝元は帰国した二人を自害させた上、内藤元珍の子・元宣を幽閉した[180]。, 大坂の陣の後、輝元は大坂の陣の軍役や江戸城などの手伝普請、江戸藩邸の建設でかさむ借財や、関ヶ原以後に生じた家中の分裂を解消すべく腐心した。, 元和2年(1616年)7月19日、輝元は家中融和の策として、一人娘の竹姫を吉川広正と婚姻させた[181][注釈 13]。, また、元和3年(1617年)11月には繁沢元景の媒酌により次男・就隆と秀元の長女・松菊子を婚約させ、元和7年(1622年)7月28日に正式に婚姻させた。, 元和4年(1618年)8月25日、輝元は清水元親らに命じて、かねてから対立していた吉見広長を追討し、自害に追いやった[182]。, 広長は毛利家中での処遇に不満を持ち、関ヶ原の戦い後に独立大名化や他大名への仕官を図って、慶長9年(1604年)から元和3年(1617年)までの13年間に渡って毛利氏を出奔していたが、大坂の陣の後に許されて帰参していた[183]。他方、輝元は広長の出奔を理由として、吉見氏を毛利氏に吸収するため、慶長17年(1612年)に吉川広家の次男である彦二郎(後の毛利就頼)に吉見広頼の娘を娶らせて吉見氏を相続させるなど、両者の対立が深刻化していた[183]。, 輝元は広長との不和に対して、幕府からお家騒動の嫌疑を掛けられ、ひいては毛利氏改易に繋がることを恐れていた[184]。そのことが輝元に広長の追討に踏み切らせることに繋がった[184]。, 広長の死より、源範頼以来続いた源氏の名門・吉見氏が事実上滅亡したが、輝元は吉見氏に厳しい処分を下した。広長の父・広頼は同心していなかったとして隠居料を安堵されたが、家臣らに対しては広長補佐の役割を果たさなかったとして追放処分を科し、あわせて防長二国への入国禁止、違反した場合は成敗するとまで言い渡した[184]。, 元和5年(1619年)8月、輝元は健康の悪化も顧みず、5月に上洛していた将軍・秀忠に面会して大坂の陣以来の毛利氏に対する好意を謝すため、合わせて今後のことも宜しく依頼するため、あえて上洛に踏み切った[185]。, 輝元は病をおして萩城を発ち、8月13日に大坂、8月16日に京に入り、妙伝寺を宿所とした。輝元が入京すると、幕府の年寄衆は直ちに使者を送って輝元の無事の上洛を祝し、8月19日には高力忠房が秀忠の使者として輝元の宿所を訪ね、老躯を推して上洛し祝着である旨を伝え、土井利勝も秀忠との謁見は長旅の疲労を癒してからで良いと内々に伝達した[186]。, 8月25日、輝元は土井利勝の宿所を訪ねて饗応を受けてから、秀忠の宿所である二条城に登城した[185]。登城の際には、秀忠の勧めにより玄関まで輿で乗り付け、神尾守世、柳生宗矩、曲直瀬玄朔らに手を引かれて参入し、秀忠の前では本多正純に手を引かれ、土井利勝の取り持ちで秀忠に謁見した。秀忠は輝元と会ってゆるゆると懐旧談をするつもりであったが、輝元の病状が思いのほか良くないことから懐旧談をするのは取り止め、懇ろに遠路上洛した輝元を労うと共に養生するよう輝元に伝えた。なお、輝元登城の際に秀忠がこのような特別な計らいをしたのは、京に滞在中の輝元がしばしば曲直瀬玄朔の薬を服用し、他人との面会を謝絶して秀就や秀元に代理をさせていたためである。, 8月28日、土井利勝が上使として来訪すると、輝元は秀忠の計らいや土井利勝の懇意への感謝を述べ、秀就、秀元、就隆、吉川広正の今後を頼むと共に、遠国のことであるのでもし毛利家について不審に思う点があれば内証に尋ねて欲しいと依頼した[187]。, こうして、輝元は上洛の目的を果たし、9月1日に京を発って帰国したが、この時の上洛が輝元の生涯で最後の上洛となった[188]。 「三日月宗近。打ち除けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ。」 「十一世紀の末に生まれた。要するにまあ、じじいさ。ははは。」 「はっはっはっは…いや、笑っている場合では無いか。」 「熱いな。本気になるか。」 士ã§ããã pixivå
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天正7年(1579年)6月前後、備前の宇喜多直家が信長に通じて、毛利氏から離反した[79][80]。直家が毛利氏から離反した理由に関しては、輝元が上洛を断念したために播磨へ進出する野望が実現できなくなったこと、加えて信長から備前と美作の領有を確約されたことにあった[79]。直家の離反により、毛利氏と織田氏の争いは、織田氏有利に傾いていった[81]。, 同年9月、伯耆の南条元続が宇喜多氏に続いて毛利氏から離反し、織田方についた[80][81]。南条氏は山名氏の下で守護代を務めるなど、伯耆を代表するような国人であった[82]。だが、輝元の上洛断念により、宇喜多氏と同様に織田氏との最前線に置かれていた南条氏に対する毛利氏の支援に不安を覚えたために、織田氏に通じることとなった[82]。, 南条氏の裏切りにより、西伯耆と因幡、但馬を結ぶ連絡ルートが遮断され、但馬の毛利方勢力は織田氏に抵抗を断念せざるを得ない状況となった[82]。但馬同様に西伯耆とのルートを遮断された因幡でも、翌年から羽柴秀吉による攻略が進められるようになった。, 輝元が上洛を断念したことは、自らが救援するはずだった三木の別所氏、摂津の荒木村重のみならず、大阪の石山本願寺をも見捨てることを意味していた[79][83]。, 天正6年11月6日、毛利水軍は本願寺に物資を運び入れるため、石山に再び来援したが、九鬼嘉隆の鉄甲船を用いた織田水軍に敗北を喫した(第二次木津川口の戦い)[84]。以後、毛利氏は淡路島以西の制海権は保持したままであったが、大阪湾は織田水軍に封鎖された[85]。本願寺は輝元自らの援軍も見込めなくなったこともあり、次第に戦況が不利となっていった[79]。, また、輝元と同盟関係にあった上杉謙信が天正6年3月に死去すると、その2人の養子・上杉景勝と上杉景虎が跡目を争う、御館の乱が勃発した。天正7年にこの乱を制した景勝もまた信長との抗争を継続したが、上杉氏は北陸方面で大きく勢力を減退し、信長包囲網が瓦解し始めてきた。, 天正7年9月、輝元の上洛による援軍をあてにしていた荒木村重は織田方との戦いで不利に陥り、有岡城から退去を余儀なくされた。また、同年11月に有岡城が落城し、その他諸城も織田方の手に落ち、村重は毛利氏領国へと逃亡した[79]。, 天正8年(1580年)1月、織田軍の羽柴秀吉が三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害した(三木合戦)[81]。それを受けて、3月には本願寺は織田氏との勅命による講和に応じ、顕如らは石山を退去することとなり、摂津における毛利方勢力は壊滅した[81][86]。さらに、5月までに但馬の毛利方勢力も織田氏に降伏した[81]。また、同年は備前においても3月に「辛川崩れ」、翌4月の虎倉合戦における「加茂崩れ」で宇喜多勢に対して相次いで敗北し、備前からも手を引かざるを得なくなった。これらの敗北により毛利勢の退潮は明白となり、国人層の離反も相次ぐようになる。, 天正8年5月、秀吉は播磨を平定し、播磨の毛利方勢力も壊滅した[82]。その後、同じく但馬を平定した弟の秀長と合流し、因幡へと侵攻した[82]。秀吉は因幡の諸城を落とし、同年6月には因幡守護の山名豊国は降伏を余儀なくされた[82]。, 同年8月、輝元が吉川元春を主力とする軍勢を南条氏に向けると、因幡では豊国の家臣らが毛利氏に内通し、豊国を鳥取城から追放した[82]。その後、毛利氏は名将・吉川経家を城番として因幡に派遣し、天正9年(1581年)3月に鳥取城に入城させた[82]。だが、同年7月から秀吉は鳥取城の兵糧攻めを開始したため、城内は深刻な兵糧不足に陥り、同年10月に経家は自害を余儀なくされ城は開城した[87][88]。, 天正10年(1582年)3月、輝元と同盟関係にあった甲斐の武田勝頼もまた、甲州征伐で織田氏に敗れ、自害し果てた[89]。武田氏の滅亡、上杉氏の衰退により、信長包囲網が瓦解し、輝元ら毛利氏はさらに不利な状況に追いやられた[89]。また、輝元は四国の長宗我部元親とも同盟関係にあったが、信長は長宗我部氏討伐のため、三男・織田信孝に四国への出兵を準備させていた。, 4月、秀吉が備中に侵攻したが、毛利氏の軍事動員能力は天正4年から7年続いた戦いで限界に達しつつあり、備中諸城には毛利氏の支援もなく、落城するか調略されるかにより降伏した[90]。そして、同月に毛利氏の忠臣で勇名を馳せていた清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃し、5月には水攻めを行った(備中高松城の戦い)[89][91]。, 同月、輝元はを受けて、元春・隆景らと共に総勢5万の軍勢を率い、高松城の救援に向かった[92][93]。そして、輝元は猿掛城に布陣し、高松城に近い岩崎山(庚申山)に元春、その南方の日差山に隆景を布陣させ、秀吉と対峙する[94]。だが、輝元らは積極的な行動を起こせず、5月21日になって輝元は元春とともに織田勢と対峙する位置に陣を移したほどだった[94]。, 援軍としてやってきた毛利氏が動けなかった理由としては、秀吉の毛利水軍に対する調略により、4月10日前後に来島水軍と塩飽水軍が離反したことにあった[94]。これにより、毛利氏は制海権を失い、陸路からのみの補給に頼らざるを得ず、そのために絶望的に物資が不足しており、輝元の本陣でさえ物資が不足する有様であった[95]。また、毛利勢は水攻めにされた高松城に対して、船を使って物資を救援しようとしたが、その船すら入手できない状態であった[91]。, そのうえ、5月末には信長自らが毛利氏討伐のため、京の本能寺で備中高松城に赴く準備をしており、毛利氏は危機的な状況に陥った[89][96]。, 6月2日、高松城攻防戦の最中、信長が京において明智光秀によって討たれる、いわゆる本能寺の変が発生した[89]。いち早く情報を得た秀吉は、光秀の謀反による信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、安国寺恵瓊に働きかけた[89]。輝元ら毛利側は秀吉から毛利氏の諸将のほとんどが調略を受けていると知らされ、疑心暗鬼に陥り、講和を受諾せざるを得なかった[97]。, 6月4日、備中高松城は講和により開城し、城主の清水宗治は切腹した[89]。また、中国地方の毛利氏支配領域に関しては、秀吉が当初割譲を要求していた美作・備中・伯耆・出雲・備後5ヶ国から、美作・備中・伯耆の三国を割譲することで妥協された。ただし、この時結ばれたのは当面の戦闘を中止するとした停戦協定に過ぎず、輝元と秀吉の講和ではないとする見方もある[96]。輝元は信長の突然の横死、清水宗治の犠牲と引き換えに危機を脱する形となった[96]。, 秀吉はその日のうちに撤退し、毛利方が本能寺の変報を入手したのはその翌日の5日であったことが、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが輝元の従兄弟・吉川広家の覚書(案文)から確認できる[98]。この時、元春などから秀吉を追撃すべきいう声もあがったが、隆景が誓紙を交わした以上は講和を遵守すべきと主張したため、輝元も追撃を断念した[99]。しかしながらこれは表向きの理由であり、「辛川崩れ」「加茂崩れ」の苦い経験から宇喜多勢にすら勝てる見込みがないことは明白であり、輝元には和睦の遵守以外に残された手段がなかったのが実情である。[要出典], 6月9日、信長の死を知った義昭は隆景に対し、帰京するために備前・播磨に出兵するように命じたが、輝元は講和を遵守して動かなかった[100]。毛利氏は上方の情報収取は行ったが、領国の動揺を鎮めることで精いっぱいであり、進攻する余裕はなかった[101][102]。, 6月13日、秀吉が山崎の戦いで光秀を破ると、輝元は秀吉に戦勝を祝うため、安国寺恵瓊を使者として派遣した[101][103]。だが、輝元は秀吉の戦勝を祝したものの、諸方面の戦闘では譲らず、美作と伊予では羽柴方との戦闘を継続した[101]。, また、秀吉と柴田勝家が覇権を巡って火花を散らし始めると、輝元は双方から味方になるよう誘いを受けた。この間、義昭は勝家から自身の帰京の約束を取り付けると、毛利氏に勝家を支援させるように動き始めたが、輝元は両者の抗争を静観し続けた[104]。, 天正11年(1583年)3月、勝家が近江に出陣すると、輝元とともに秀吉を挟撃しようとし、義昭にすすめて輝元に出兵を督促させた[105]。これを受け、4月に義昭は毛利氏に柴田方に加勢し、秀吉を攻撃するように命じた[104][106]。だが、輝元は「どちらが勝利するか判断できない」という元春や隆景らの意見を重視し、両者との通交を維持して情勢を見極める方針を打ち出した[104][106]。, 同月、秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家に勝利すると、秀吉は毛利氏に対して強硬な姿勢を取り、再侵攻をほのめかすようになった[107]。秀吉が恵瓊に宛てた5月7日付の書状では、輝元に美作・備中・伯耆の三国を割譲することなどを条件に講和を迫り、もしこれを拒否した場合は毛利氏を滅ぼす、という旨が記されており、輝元に決断を迫った[107]。, 輝元は恵瓊から説得を受けたものの、元春や隆景が領地の割譲に反対し、国境の画定交渉は難航した[108]。加えて、割譲を求められた美作・備中・伯耆の三国では、毛利氏配下の国人たちが領有地域からの退去に抵抗し、その説得のためには安易な妥協はできなかった[108]。美作では、毛利氏配下の草刈氏や中村氏が宇喜多勢の侵攻を撃退しており、輝元自身は秀吉との軍事衝突に突入しても互角に戦えると判断していた[108]。だが、恵瓊は秀吉と戦闘に入った場合、9月16日付の書状では「十に七・八は負ける」と判断しており、輝元に軍事衝突を避けるように説得し続けた[109]。, 天正12年1月、秀吉は毛利氏との講和交渉が進まない事に激怒し、明け渡し対象の毛利氏諸城の攻撃を示唆したばかりか、また講和の条件を美作・備中・伯耆の三国の割譲ではなく、当初の美作・備中・伯耆・出雲・備後の5ヶ国割譲に立ち戻ると脅した[109]。前年10月に輝元は叔父の小早川元総と元春の三男・吉川経言を毛利氏の人質として提出していたが、これは秀吉からすれば毛利氏の一時しのぎとしてみなされていなかった[110]。, このとき、秀吉は徳川家康や織田信雄との関係が悪化しており、輝元が軍を率いて上洛し、背後から毛利勢が襲ってくるのではないかという心配にも駆られていた[110]。秀吉は毛利氏が参戦するのを恐れ、小牧・長久手の戦いの間もずっと、宇喜多秀家や因幡衆に警戒させていた[110]。毛利氏もまた、この小牧・長久手の戦いに対してはどちらかと言えば中立的立場であり、積極的な介入は行っていない。, 同年11月、秀吉と家康・信雄との講和が成立し、秀吉はさらに強大な勢力を持つようになった。輝元は秀吉が東海から引き上げて西国へと転向し、毛利氏領国へ侵攻することを恐れるようになった[110]。また、同年秋には備前・美作での戦闘は終結し、毛利氏配下の国人たちは退去しつつあった[110]。, 天正13年(1585年)1月、輝元は秀吉との国境画定に応じ、毛利氏は安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、隠岐国7ヶ国に加え、備中・伯耆両国のそれぞれ西部を領有することとなった[111]。輝元は祖父以来の領地の多くを認められ、その所領の総石高は120万5,000石となり、徳川家康、織田信雄らと並ぶ大名となった[112]。, こうして、輝元は秀吉と正式に講和し、天正4年から続いた毛利氏と織豊政権の戦闘はようやく終結した(京芸和睦)。, 天正13年3月、秀吉は根来衆などを討伐するため、紀州攻めを行った[102]。このとき、輝元は秀吉に協力し、毛利水軍を紀州へと派遣している[102][113]。, 天正13年5月、輝元は秀吉の長宗我部氏に対する四国攻めに協力し、小早川隆景らの軍勢を伊予に派遣した[114]。その兵力は3万から4万に及んだという[114]。, 輝元はかつて信長に対抗するため、長宗我部元親と同盟を結んでいたが、秀吉との講和により解消されていた[115]。また、伊予には毛利氏と長らく友好関係にあった河野氏がおり、土佐一条氏の侵攻に対して援軍を出したこともあった。そのため、秀吉の四国遠征に協力することは、長宗我部氏のみならず河野氏との断交も意味していた[111]。, だが、毛利家中には深刻な問題が発生していた。それは秀吉に割譲した領地を支配していた毛利氏配下の国人たちに対して、新たな給地をどうするかという問題であった[115]。輝元はこの問題を解決するため、秀吉の四国攻めに協力したのであった。, 四国攻めの結果、8月に元親は降伏し、長宗我部氏の領地は土佐一国となり、割譲された阿波・讃岐・伊予に関して国分が行われた。その結果、伊予から河野氏が除封され、輝元配下の隆景、 小早川秀包、安国寺恵瓊、来島通総、得居通幸らに宛がわれた[116][117]。, これは島津氏が大友氏の本領・豊後へと侵攻し、秀吉の出した惣無事令に違反したことにあった[118]。だが、毛利氏は大友氏に対抗するため、島津氏とはこの九州攻めより以前から友好関係を保ち軍事同盟が成立していた[118]。また、義昭がその間を仲介し、本能寺の変後も義昭の使者として柳沢元政が下向しており、輝元自身も元政宛ての書状で「薩州こなた手合せの儀肝入」と記している[118]。つまり、秀吉の九州攻めに参加するということは、皮肉にも宿敵であった大友氏を助け、良好な関係にあった島津氏と戦うということであった[118]。, 輝元は4月に秀吉から出陣要請を受けると、8月に自身は安芸より、月末には小早川隆景が伊予国より、吉川元春が出雲国よりそれぞれ九州に向けて進発した。そして、輝元は豊後へ到着し、先鋒を任され毛利勢は島津勢と交戦した。, 天正15年3月、曲直瀬玄朔が秀吉の計らいで、罹病した輝元を診療して快癒させている[119]。, 天正15年5月、島津氏が降伏し、6月に秀吉は九州国分を行った。その中で、毛利氏の領国の転換を行おうとし、備前・伯耆・備後・伊予を収公して、豊前・筑前・筑後・肥後を代わりに与えようとした[120]。だが、輝元は祖父が早い時期に進出した備後が含まれていたことから納得せず、秀吉は伊予以外の収公を断念し、隆景を伊予から筑前・筑後に移すことを提案した[121]。, 隆景は戦乱で荒廃した筑前・筑後を与えられても公役を果たすことはできないことや、自身が毛利氏から離れることが輝元を見捨てることに繋がると、この案にも反対した[122]。結局、同年に筑前一国と筑後・肥前は隆景に宛てがわれ、隆景は毛利氏の経営から離れることとなった[123]。, また、九州攻めの最中、輝元を支えてきた吉川元春・元長父子が病で死去し、毛利両川の体制が崩れることとなった[124]。, 天正16年(1588年)7月19日、輝元は主な家臣を連れて大阪に到着し、浜の町の布屋に入った[125]。このとき、義昭の使者・真木島昭光が訪れ、輝元に金屏風一隻、樽二十荷、肴十折、帷子二十が贈与された[125]。, その後、同月22日に京都に到着した輝元は曲直瀬道三の屋敷に向い饗応を受けている。この時に輝元から道三に祝儀として銀子100枚、妻の介石に銀子30枚が遣わされている[119]。24日には秀吉と聚楽第で対面した[125]。, そして、同月25日に輝元は内裏に参内し、後陽成天皇から天盃を頂戴され、従四位下・侍従に任官した[126]。さらに28日には参議に転任した[127]。これにより、輝元は清華家の家格を持つ大名として扱われ、朝臣として秀吉の創出した公儀の序列に入った[127]。また、秀吉から豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、羽柴安芸宰相と称されるとともに[128]、完全に秀吉に臣従した。, 9月10日、輝元は宇喜多秀家に招待され、大阪の屋敷を訪問した[125]。この場には秀吉も臨席した[125]。その後、同日に輝元は安国寺恵瓊や細川幽斎(藤孝)とともに義昭のもとを訪れると、義昭から多年の忠功を謝され、懐旧談にも及んだという[129]。, 天正17年(1589年)4月以降、輝元は当時の交通の要衝である太田川の三角州(当時の名称は五箇村)に、広島城の築城を開始した[127]。, 広島城は輝元が上洛時に見聞した聚楽第や秀吉の居城・大坂城に感化されて築城されたものである[127]。また、この城は豊臣政権の強い影響下で築城されたという見解もある[127]。他方、この城は太田川の三角州を開拓することにより毛利氏領国の首都機能を集約する意図があったとされ、輝元の意向で築城されたものであって豊臣政権の影響下で築城されたものではないとする説もある[127]。, 天正18年(1590年)2月、秀吉が後北条氏に対する小田原征伐で関東へと赴くと、輝元はその留守を守るため、京都警固を務めた[130]。, 天正19年(1591年)3月、輝元は秀吉より知行目録を与えられ、112万石の所領を安堵された[注釈 3]。, また、同月には広島城が概ね完成し、輝元は長年の毛利氏の居城であった吉田郡山城から広島城に移った。秀吉の聚楽第や大坂城を模したこの城は、毛利氏領国の首都機能を集約し、輝元の権威を象徴するものとなった[127]。, 文禄元年(1592年)2月、輝元は秀吉の朝鮮出兵に応じ、朝鮮へと渡海するために広島城を出発した[130]。その後、4月に小西行長が先陣として朝鮮に入ると、諸将もそれに続き、輝元率いる3万の軍勢は六番隊として朝鮮に入り、5月に星州に布陣した。, 6月、輝元は開寧に陣を進め、五番隊と連携して日本軍連絡線の守備に就いた。開城陥落後、諸将は漢城で軍議を開き、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決め、輝元は七番隊として慶尚道を制圧することとなった。輝元は同月の茂渓の戦いや8月の第一次星州城の戦い、9月の第二次星州城の戦いなど、慶尚道において朝鮮軍と激戦を繰り広げた。, 文禄2年(1593年)3月、日本と朝鮮の援軍たる明との間で講和交渉が進められると、8月に輝元は朝鮮から帰国した[130]。, 文禄4年(1595年)7月、秀吉の甥で関白・豊臣秀次が高野山で切腹させられる、いわゆる秀次事件が発生した。この事件は、輝元と秀次がかつて交わしたという誓約が発端となっているとされてきた[131]。しかしながら、小瀬甫庵の『太閤記』に記されているような輝元と秀次が誓紙を交わしたとする確証は存在しない、とする反論がある[132]。, 同年8月、輝元は秀次事件を克服しようと考える秀吉より、徳川家康らとともに五大老[注釈 4]に任じられた[135]。このとき、輝元と秀次との誓約が先の事件の発端となったため、御掟五ヶ条が発令され、諸大名間の縁組・誓約(同盟)が全面的に禁止された[135]。, 同年10月18日、長らく実子がいなかった輝元に嫡子・秀就が誕生した[130]。だが、輝元は従兄弟である秀元(穂井田元清の子)をすでに養子としており、秀吉からも輝元の後継者として認められていたため、その処遇が問題となった。, 慶長2年(1597年)2月、秀吉は明との和平交渉が決裂したことで再度の朝鮮出兵を命じ、西国諸将に動員令が発せられた。だが、輝元はこのとき病身のため出陣できず、養子の秀元が代わりに出陣した。この時の兵力は文禄の役と同じ3万であり、秀元もまた輝元と同様に各地で奮戦している。, 慶長2年6月、残された両川となっていた小早川隆景が死去した。小早川家臣は養子の小早川秀秋に仕えることをよしとせず、毛利本家に帰参した。しかし、これらの者の中には帰参したはいいが、毛利家中では外様視されてしまうことを嫌い、出奔する者も多く出た。隆景の重臣であった鵜飼元辰も出奔を企てたため、輝元は元辰を殺害した。, また、隆景の死後、三原など毛利家に返還される所領の処理も問題となった。加えて、輝元は実子の秀就が生まれたため、秀就を後継者とする代償として、養子の秀元に領地を分け与えなければならなかった[136]。, 慶長3年(1598年)8月1日、秀吉はこの問題の処理のため、秀元の給地を出雲・石見(石見銀山を除く)の二国とし、隆景の遺領には吉川広家を移す意向を示した[136]。だが、この裁定の直後、秀吉の病状が悪化したため、実行には移されなかった[136]。, 同月18日、秀吉が大坂城で死去した[137]。輝元はその際、臨終間近の秀吉から遺児の豊臣秀頼の補佐を託された。だが、秀吉の死後、諸大名の間で政治的抗争が激化し、秀吉没後に決められていた集団指導体制は否定され、多数派工作が展開されていった[137]。, 8月28日、輝元は五奉行のうち石田三成ら四奉行に対し、「五大老の内、秀頼への謀反ではなくとも、五奉行の意見の同意しないものがあれば、自身は五奉行に味方して秀頼に奉公する」、とした旨の起請文を出した[138]。輝元は、家康と五奉行が敵対すると考えていた。そのため、輝元は家康と五奉行と不和になった場合に際して、起請文通りに五奉行と連携するため、上方方面に兵を集結させていた[138]。, 9月3日、輝元・家康ら五大老と三成ら五奉行は起請文を交わし、「何事に関しても一切の誓紙を交わさない」と定めて多数派工作を禁じ、諸大名の対立はひとまず沈静化した[139]。とはいえ、家康と五奉行の対立は依然として続き、五奉行は強大な軍事力を持つ家康に対抗するため、家康に次ぐ実力を持つ輝元を味方に引き入れようとした[139]。そして、それは秀元の処遇・隆景の遺領問題を輝元有利に決着させるため、秀吉の裁定を見直す方向に繋がった[139]。, その後、豊臣政権の取次であった三成は、秀元に吉川広家の所領である伯耆・出雲・隠岐を与えて、広家を宙に浮いていた小早川隆景の遺領に移す案を作成した。輝元は吉川氏の勢力を削減する意図をもっていたため、瀬戸内海の要所である三原を広家に与えることに難色を示して代替地を備中にする意向を示し、秀元も長門を与えられることを希望したが、所領を移される広家は元よりこの提案内容に反発し、三者三様の反対をした。にもかかわらず、慶長4年(1599年)1月に三成は広家の代替地の決定を先送りする形で、この案を押し切った。, 慶長4年閏3月、輝元と同じ五大老の前田利家が死亡すると、福島正則、加藤清正ら七将が三成を襲撃した[140]。