大名と旗本の実高を中心に調査、その支配実態を私的に検討した結果です 大名旗本の実高ランキング このページはフレームを使用しています フレーム機能のない場合は こちらを どうぞ 大名・旗本・御家人の昇進の仕組み 400以上とされる江戸幕府の役職の頂点は「老中」。 現代と同様、サムライの世界でも出世欲は強かった。 大名や旗本の出世の… ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 旗本の用語解説 - 元来は戦場にあって主君を護衛する直属の武士団をさしたが,江戸時代には将軍家直属の家臣のなかで1万石以下,御目見 (おめみえ) 以上の者をいい,将軍から土地あるいは蔵米を給与された。諸藩の家臣と違って,実際に土地を … 旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた 。 1570年(元亀元年)頃の畿内・中部・北陸・関東・東北の諸大名石高をランキング化してみた。 石高は米の取れ高のため、一概に大名の財力を直接表すことにはつながらないが、石高を中心とする経済力の大体の目安にはなる。 織田信長 … 時代劇で大名と旗本がよく登場します。何が違うのか?簡単に言ってしまうと、石高(こくだか)が1万石以上を大名とそれ以下の石高を旗本と区別できます。例外もあるけど石高で見ればそんな分け方。江戸時代、大名の 旗本と言われると身分の高い武士というイメージがありますが、実際はどのようになっていたのでしょうか。 徳川将軍家直属の家臣団で石高が「一万石未満」で将軍が出席するイベントに参加出来る「御目見以上」の家格を持つ者と定義されていたようです。 江戸幕府が編纂した近世最大の系譜集であり、旗本を調べるための最も基本的な資料です。寛政10(1798)年までを収録しており、文化9(1812)年に完成。大名や旗本以上の幕臣などの系図を掲載し、系図中の個々人には略伝が注記されています。 『江戸の旗本大辞典』(小川恭一著 講談社)で紹介されている3千石の池田家では家老150石(52両)、年寄120石(42両)、用人100石(35両)、給人格が40俵2人扶持(約17両2分)、大小姓と中小姓が30俵2人扶持(14両)、表小姓が25俵2人扶持(12両1分)がそれぞれの役職の俸禄の上限として定められた。 俸禄の種類別金額換算方法 玄米一石=一両という前提で俸禄を金額に換算する。知行地の税率を三割五分、蔵米取り百俵を三十五石という幕府の基準に従うと石高×0.35、蔵米取りは俵×0.35、現米取りは現米、扶持米取りは人数×5(一人扶持は5俵)×0.35となる。 旗本寄合席(はたもとよりあいせき)は、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の家格。 正しくは、寄合という。旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある。 若年寄支配。 交代寄合は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うが、老中支配である。 江戸時代にお侍さん、武士階級だった人たちは明治時代前ですと人口の6%くらいだったそうです。お侍さんの中にも様々な格あり、江戸幕府将軍の家臣である旗本(はたもと)という名称の人たちはお侍さんたちの中でも特に立場が上の方々でした。どういったお侍さんたちが旗本なのかについては、幕府から与えられている石高や将軍にお目見え(身分の高い方にお会いすること)出来る立場かどうかで定義されていたようです。旗本は将軍様にお会いすることが出来る家 … Copyright © 茶山(さやま)の関心事セット All rights reserved. しかも石高は高々4200石で、島津、伊達などの大大名と肩を並べているのですから何で? と思っても不思議はありません。 つまり武士の地位としては旗本で4200石しかないのですが、位階は従四位上と大大名と同等で、役職は高家筆頭、有職故実・儀式典礼に特に秀でたる人物だった … 「幕末」に係わらず、江戸時代における全旗本の氏名及び石高がわかる網羅的資料は見あたらなかった。 また、『国史大辞典』『日本史大事典』に〈幕末〉の項目がないように、幕末自体の定義がはっきりしないこと、禄高についても増減があることから、時期を「幕末」に限らず、旗本 … 要するに「石高が大きい」=「大きな所領を支配している」ということになります。 それでは、国別の石高のランキングも見て見ることにしましょう! 国別石高ランキング7(1598年豊臣政権 … 旗本浅野家は、現在の兵庫県相生市若狭 野に陣屋を構えていた大身旗本で(知行3000石)、あの元禄赤穂事件で著名な赤穂浅野家の分家です。しかも、赤穂事件の立て役者大石良雄の父の従弟長恒 が浅野家の養子となって成立した旗本でもありました。 陸奥は陸前・陸中・陸後をあわせた地域をふくめて「大国」としている。ただし、各国にかならず「守」と「介」を置いたとはかぎらず、空位のまま、という状態もまま見られた。 尾張の小川に興った。小川長保は戦国乱世に活躍、大阪の陣では土井利勝の旗の下におり、八十七歳で世えお去った。その子孫が旗本として残った。 小河家 作成中: 一文字に尾長鳥 常陸の小川から興って小川氏となり、のちに文字を変えて小河氏になった。 一千石・三千石・五千石の旗本の場合、家臣の人数・構成、屋敷の数・坪数はそれぞれどの程度の陣容だったのでしょうか? 家臣の数・構成(慶安2年(1649)の軍役規定)1000石 21人(侍5、槍持等16)3000石 56人(騎士2、侍8、槍持 江戸時代の徳川の旗本は、一体どのような姻戚関係を結んでいたのだろうか。実は一口に旗本と言っても、大きく二つの階層に別けることができる。即ち、寄合席の旗本とその… 役職に就いたとき、その役職に応じて支給される俸禄の額。 足高(たしだか)の制…本来 家禄と役職は連動しており、家禄の低いものは高い役職に就けなかったのを、8代将軍吉宗の時、人材登用の効率化のため優秀で家禄の低いものでも高い役職に就けるように、就任中に限りその差額 … ※旗本石川家の石高(こくだか)の史料。 岡崎地方史研究会 柴田 知憲氏より画像提供頂きました。 また、柴田氏のご先祖様も、 旗本石川家にお伝えした、 御家臣の子孫であられるという事実も、 そうした使命感に繋がっていると拝察されました。 旗本は大老や若年寄といった将軍家の高い身分につくことができましたが、自分の領地からとれる石高は少なくされていました。 逆に、地方の大名は「石高は高いけれど、旗本と比べると身分が低い(重要な役職には就けない)」という暗黙の了解がありました。 石高と石盛と石高制がわかりませんについて。高校生の苦手解決Q&Aは、あなたの勉強に関する苦手・疑問・質問を、進研ゼミ高校講座のアドバイザー達がQ&A形式で解決するサイトです。【ベネッセ進研ゼミ高校講座】 江戸時代にお侍さん、武士階級だった人たちは明治時代前ですと人口の6%くらいだったそうです。お侍さんの中にも様々な格あり、江戸幕府将軍の家臣である旗本(はたもと)という名称の人たちはお侍さんたちの中でも特に立場が上の方々でした。どういったお侍さんたちが旗本なのかについては、幕府から与えられている石高や将軍にお目見え(身分の高い方にお会いすること)出来る立場かどうかで定義されていたようです。旗本は将軍様にお会いすることが出来る家来でした。将軍様にお会いすることがかなわない家来衆もいたんですね。そういった方々は旗本とは言わず御家人(ごけにん)と呼ばれていたのだそうです。江戸時代の社会のたった6%の中でも立場がいろいろでした。旗本の方々というのは5000家くらい存在していたそうです。お侍さんの中でも立場が上の旗本の人たちの待遇は一体どれ位だったのでしょう。先ほどの旗本の定義で触れた石高というのは領地からとれるお米の大まかな量を表す言葉で、よく大名の領地を~万石(~まんごく)と言いますが、あれのことですね。旗本の方の石高は多かったとしても1万石を上回ることはありませんでした。1万石以上なら「大名 だいみょう」、お殿様ということになりますので。旗本の石高の上限は1万石未満ということになります。ただ少ない待遇の旗本の方々も当然おられて、そういった方々へ幕府から与えられる報酬は少ない場合で100石くらいだったという指摘が多いようです。しかしそれ以下の報酬しかもらえない旗本の方々もおられたそうです。10人扶持(10にんぶち)だったという指摘もあります。少ない報酬の旗本の場合はお米などでの支給ということになりますが、報酬の多い旗本の方々は領地を幕府から与えられていました。そこの領地から産出されるお米の量が9000石とか何千石とかいう莫大な量になり、その領地で徴収される年貢が領地を所有する旗本のかたのものになります。, 石(こく)は昔から使われていた容積を表す単位です。1升瓶(1しょうびん)という言い方は現代でもよく使われますが、この升も昔からある容積の単位です。1升の10倍の容積が1斗(1と)です。斗も容積を表す昔からある単位です。1石は10斗と同じ量の容積です。1石=10斗=100升ということになります。石高で言われる100石などはそれくらいの容積のお米の量を考えればいいことになります。江戸時代に存在していた諸藩について説明される時に出てくる~万石といった表現は~万石のお米がとれるくらいの領地の規模ということですね。この記事では旗本の方々の石高を扱っていますが少ない報酬の旗本の方でも100石くらいということでかなりの量のお米を幕府からいただいていたということになります。100石=10000升です。1升瓶に入るお米の量の10000倍です。, 上の項目でふれました10人扶持という表現ですが、扶持(ふち)って何なのでしょう。これは昔の報酬の量を表す言葉で、年間にしてお米5俵を支給することを1人扶持というのだそうです。ということは10人扶持という待遇ですと年間お米50俵を支給してもらえることになります。1人扶持のお米5俵という量は1日あたりですと5合のお米の量になります。, 今回は江戸時代の一部のお侍さんたちの待遇について取りあげました。江戸時代の旗本の方々の待遇について関心を持たれている方が多いようですし、私自身もよくわかっていませんでしたので確認したくこのようなテーマの記事を作ってみました。1万石未満という点は有名なようですね。旗本で大きな報酬を得ていた人では9500石なんて言う方もおられたようですので小規模な大名とほぼ同じ位の領地を持っていたということになります。, 一方で一年間につきお米50俵の報酬にとどまる旗本の方もおられたという指摘もありますから、旗本と一言で言っても待遇は非常に様々だったということですね。お米を支給された旗本の方はそれをお金に換えたりして生活のために使うことになります。なので世の中の状況でお米の値段が下がるようなことになると換金しても少しのお金にしかならないわけです。徳川吉宗さんの時代にお米が下がり過ぎてしまったことについて対策をとるのも家来衆の生活を守るために必要な事だったからということですね。お米の価格が低いままだと支給するお米を換金しても生活に困る家来が続出してしまうことになりますので。当然幕府はお米の値段を上がり過ぎもせず(上がり過ぎたら庶民がお米を買えなくなって問題になります)、下がり過ぎもしないよう安定させたいと考えることになります。, 今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>, 家臣の待遇を安定させる話について触れている記事「江戸時代の享保の改革とはどのような内容だったのでしょう」はこちらです。, 荒廃した農村を復興しようとした政策について触れている話「松平定信の寛政の改革とはどのような内容だったのでしょう」はこちらです。. 江戸の藩の石高ランキング (文久3年幕府大目付調... 桜田門外の変 安政7年3月3日(1860年3月24日) 日航123便墜落の新事実(青山透子著)の衝撃; 時間は存在しない「ブロック宇宙論」 大学一年の数学最重要3本柱「線形代数」「微分積分... フェニキア人 旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた[1]。, 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。, 戦国時代には、主君の指揮下に属する直属部隊の家臣を指す場合もある。おもに譜代の家臣で編成され、戦闘時には主君の本陣備を構成した。, 戦国大名家における幕下層(国人領主等)は軍事的に大名家に従属していたものの独立的軍団を構成しており、領国経営においても独立性が強く、離反も珍しくなかった。これに対し、直属の家臣であった旗本は主君にとって信頼できる存在で、戦国大名家の政治権力においても中心的な役割を果たしたと考えられる。例えば、上杉謙信の家臣の千坂景親のように戦闘時に常に本陣周辺に配置されるため、華々しい戦果を残すことはあまりないが、大名家の家臣団の中枢を担ったのは旗本家臣層であった。, 江戸時代の旗本は、三河から勃興した徳川氏の家臣が代表的である。他に北条、武田、今川の遺臣、大名の一族や、改易大名の名跡(を継ぐ者)、遠隔地の豪族で大名になりきれなかった名族、かつて戦国大名や守護大名などであった赤松、畠山、別所、北条、富樫、最上、山名、武田、今川、小笠原、大友、織田、金森、滝川、筒井、土岐、福島正則の嫡流、庶流の末裔などから構成されている。また幕初から中期にかけては、大名や旗本が幕府に認められて、分知によって分家の旗本家を作ることが盛んに行われた。, 知行地の石高が高い者は、特に「大身旗本」と呼ばれる。彼らや旧家の子孫である旗本は寄合と呼ばれる家格に位置づけられ、旗本の中でも特別扱いを受けた。, 旗本の中には参勤交代を認められた家があり、特に交代寄合と呼ばれる。交代寄合は石高が多い家が多いが、徳川将軍家の本家筋に当たる松平郷松平家(420石)や米良家(無高、米良山支配)など石高が少ない家もあった。, 儀礼等を司る役目を負う吉良・畠山・今川・武田等の旧名門の家格出身者は、家臣団とは別格の高家と呼ばれた。高家は初め吉良家など3家であったが、次第に増加して26家となった。高家は1000石級の者が多く、家柄や官位に比して家禄は少ないことが多かった。高家肝煎は10万石級の大名と同じ官位が与えられることもあったが、石高は最高でも5000石未満であった。また、高家は他の幕府役職に就くことが出来ず、寄合にも入らなかった。, この他特殊な旗本として、千村家と山村家がある。この両氏は木曾家の家臣の出自で、幕府の旗本でありながら、御三家尾張藩徳川氏の家臣でもあるという特殊な待遇であった。, 旗本・御家人は武家諸法度により統制され、高家や交代寄合などの例外を除いて若年寄の支配下に置かれた。江戸集住が原則であったが、知行所支配に関する権限は本来大名と同一であり[2]、特に交代寄合は大名と同じく参勤交代を許されているため、知行所に陣屋を構えた。また一般に、知行が諸国に散在せずまとまった知行を有していれば、陣屋を構えて代官を派遣し、行政権・司法権を行使した。ただし、知行所が一箇所で千石足らずの場合には、代官を派遣すると費用負担が財政を圧迫するため、在地代官や大庄屋を取り立てて統治させたり、知行所村々の庄屋に代官と同様の職務を命じたりする場合も少なくなかった。大名家から分知により成立した旗本の場合には、本家に知行所統治を委託する場合も多かった。幕府の代官や郡代に年貢収納業務を含む知行所統治を委託した場合もある。一方、知行が200石に満たない場合には禄米支給とされ、200石を超える場合でも、個別の事情により禄米支給とされた場合がある。また、大名家からの分知旗本の場合、一部の新田藩と同様に、内分分知すなわち明確な分知領の指定がなく、本家からの禄米支給によって財政が賄われるケースもあった。, 俗に「旗本八万騎」と呼ばれたが、宝永年間の記録では総数約5300人、御目見以下の御家人を含めても約2万3000人の規模であった[3]。ただし、旗本・御家人の家臣を含めると、およそ8万人になるといわれている。, 旗本で5000石以上の者は、交代寄合を含み約100人。3000石以上の者は約300人であり、旗本の9割は500石以下である。, 宝永年間の記録によれば、旗本の地方高は275.4万石で全体の64%を占め、切米・蔵米・扶持受給が石高換算で153.4万石を占めていた。知行地は全国に広がっているものの、関東地方が全体の8割を占め、特に江戸のある武蔵国が全国の旗本知行地の21%、近隣の上総国が12.5%、下総国が11.0%を占めていた。旗本家の多くは知行数百石程度であり、それらの知行地が関東に集中したため諸領が極端に細分化されてしまった。統一した支配が困難で治安悪化の原因となったため、後に関東取締出役が設置されることとなった。, 旗本は石高が低いわりには軍役負担が大きく、また石高調整のために相給が行なわれることが多く、極端な場合では13名の旗本が1村を分割知行するなどその支配は困難を極め、さらに江戸集住の原則から知行取・蔵米取を問わず早くから消費者化が進んだ。幕府成立から30年後の寛永年間には、早くも「旗本の窮乏化」が問題とされている。寛政の改革の棄捐令の背景も、こうした事情があった。, また、小禄や無役の旗本は将軍に拝謁の資格があったものの、実際に拝謁できたのは家督相続・跡式相続のときのみであった。, 江戸時代初期には無頼化した旗本奴が存在し、男伊達を称して徒党を組み、市井の町奴と対立し、歌舞伎や講談の題材にもなった。, 江戸では江戸城の警備や将軍の護衛を行う武官(番方)、文官(役方、行政・司法・財政を担当)である町奉行・勘定奉行・大目付・目付などの役職に就いた。無役の旗本は3000石以上は寄合、それ以下は小普請組に編入された。, 旗本の最高の役職は江戸城留守居である。8代将軍吉宗が御三卿を創設してからは、その家老職も江戸城留守居に準ずる地位とされたが、1000石級の旗本から抜擢されることも珍しくなかった。御三卿は江戸城内に屋敷を持ち、将軍家の家族として取り扱われたため、御三卿の家老は陪臣ではない。, この他、5000石以上の大身旗本は、将軍側衆、御側御用取次、大番頭、書院番頭、小姓組番頭、駿府城代に就任することができた。, 幕府が重要都市に置いた遠国奉行は1000石級の旗本から任じられたが、伏見奉行は譜代大名からも任じられた別格のポストであった。東海道から京に入る要所であり、大名と朝廷を近づけないために、参勤交代の途中で伏見より京側に進むことは認められていなかった。また、将軍の行幸があった日光奉行も、他の遠国奉行よりやや格が高かった。猟官運動が盛んに行なわれたのは長崎奉行であり、貿易に絡む賄賂に近い副収入が見込めたことで人気が高かった。長崎奉行となって大きな財産を築いた旗本もいた。, 一方、100石から200石程度の小禄の旗本は、小十人の番士、納戸、勘定、代官、広敷、祐筆、同朋頭、甲府勤番支配頭、火之番組頭、学問所勤番組頭、徒(徒士)目付の組頭、数寄屋頭、賄頭、蔵奉行、金奉行、林奉行、普請下奉行、畳奉行、材木石奉行、具足奉行、弓矢槍奉行、吹上奉行、膳奉行、書物奉行、鉄砲玉薬奉行、寺社奉行吟味物調役、勘定吟味改役、川船改役をはじめとする諸役職に就いた。旗本の下位の役職には、御家人が就任することもあった。, 江戸時代中期以降になると、軍事・警備部門で御家人から旗本に昇進する例はほとんどなくなった。その一方で、広敷や勘定奉行の下役人となり、旗本に昇進した者が出た。, 旗本の資格がない者が旗本になる場合は、布衣以上の役職に就任するか旗本の役職に3代続けて就任することが原則であったが、将軍に謁見が許されれば御目見得の士として直ちに旗本として認められた。, 太平の世が続くと、番方と呼ばれる警備や軍事に関する役職は家柄で選ばれる一方で、役方と呼ばれた行政職(文官)は能力主義を加味した人事が行なわれる傾向が出てきた。こうした中で200石以上500石未満の旗本の場合は、老中直属の会計検査役で勘定奉行の次席格でもある勘定吟味役か、幕府収入の4分の1を消費した大奥の庶務責任者として出納の権限や出入り業者の選定権を持った広敷用人となるのが、一応の出世の到達点とされた。一方で実力によって昇進する旗本もおり、役職に釣り合う家禄に加増され、中には大名となる者も現れた。時代が下ると財政難から加増は困難になり、一時的に役料を支給する足高の制も導入された。, なお、番方は小姓組・書院番・大番・新番・小十人組の5つに分類される。これを五番(方)という。, 町奉行所附きの与力は馬上が許され、200石(200俵)以上の俸禄を受ける者も少なからずいたが、旗本ではなかった。, 旗本の仕組みに大きな変化を見せるのは、開国後の安政3年(1856年)に老中阿部正弘が安政の改革の一環として築地に講武所を開いて、西洋の銃術・砲術を含めた集団戦の訓練を旗本に命じてからである。続く文久の改革によって銃術・砲術を修めた旗本たちの中から、実力主義によって士官が選抜されるなど急速な軍制改革が行なわれるようになった。だが、既に財政的に窮乏状態にあった旗本には、軍役を負担するだけの余力は失われていた。そこで、ついに慶応3年(1867年)9月、旗本に対する軍役が事実上廃止され、知行所からの収益金の半分を軍役金に徴収(年4回の分納)することになった(慶応の改革)。この制度は1回目の納付の途中で大政奉還を迎えてしまい、十分に機能する前に幕府が崩壊することになるが、もしこの制度が機能していれば、軍役を失った旗本の存在は幕府の「士官候補生」・「官僚予備軍」にしか過ぎなくなり、仮に江戸幕府が存続していたとしても旗本の意味合いは大きく変質していたであろう[4]。, 歴史教科書では、江戸幕府(徳川将軍家)の旗本は1万石未満の将軍直属の家臣で、将軍との謁見資格(御目見得以上)を持つ者と定義されており、この定義が一般的に知られている。しかし、厳密にはより幅広い用法であったとされる。, 狭義では、200石(200俵)以上、1万石未満の将軍直属の家臣で、交代寄合・高家を除くというものであった。, 広義では、上記狭義の旗本に加えて、200石(200俵)未満で、雪駄履きで馬上となる資格がなく、将軍に謁見できる直参も含まれる。なお1万石未満の喜連川家(源流は足利氏)は大名扱いをされたので、広義の旗本にも含まれない。, また、親藩や譜代大名の家臣は陪臣であるから、将軍に謁見できないのが原則であるが、由緒ある家系に対しては、特別に旗本の格式が与えられることがあった。この場合、将軍に謁見の資格を持ち、参勤交代のときに関所で下馬することを免除された。したがって最広義の旗本とは、大名および大名の扱いを受ける者以外で、将軍に謁見の資格をある者を指す。, このうち2.の朝臣を選択したものたちは、維新前の身分と石高によって中大夫(旧高家および旧交代寄合)、下大夫(1000石以上)、上士(1000石未満)の身分を与えた。, だが1869年には、これらの身分を廃止して士族に統一し、領地も没収して禄米支給となった[5]。やがて1.も2.も秩禄処分の対象となり、公債と引き換えに禄も失うこととなった。, 熊澤徹 「幕末の旗本と軍制改革」(吉田伸之・渡辺尚志 編『近世房総地域史研究』(東京大学出版会、1993年), https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1310305100/1310305100100010/ht101180, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=旗本&oldid=81847964. 西軍: 大名: 戦前: 戦後: 結果: 合戦時の 行動: 知行地: 石高 (万石) 知行地: 石高 (万石) 石田三成: 近江・佐和山: 19: 没収 大名は石高1万石以上で、格の高さは大名が上です。旗本から出世して大名になった者として吉宗時代の町奉行・大岡忠相です。綱吉時代に柳沢吉保も下級藩士から側用人を経て大名になりました。 江戸初期では旗本にはなるには直参であることが必要でした。