1290年代にはドミニコ会士ロベール・デュセは幻視で「教皇が男であると証明したと言う」椅子を見た話を述べている。, 14世紀にはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂にある、座る部分に穴の開いた、二脚の古代の大理石の椅子、sedia stercorariaは教皇の性別を判定する為のものだったと信じられていた。その使い方とは、まず教皇の候補者が裸で座り、枢機卿の委員会が下から穴を見て"Testiculos habet et bene pendentes"(「彼には、睾丸がある、そして、それはきちんとぶら下がっている」)と宣言する、というものだった。 Copyright © 1億人が読む!!生活情報サイト All Rights Reserved. technology. 日米ハーフ女性 「私は天皇制度に反対です。女性差別すぎて看過できません。」 405 ::2020/11/27(金) 12:56:59.29 ID:PfqF5y8m0.net >>395 詭弁じゃん なんでローマ法王が世界基準なん … 新ローマ法王フランシスコ(右)と、小鳥と対話するなど神秘的な逸話が多い聖フランチェスコ(左)。カトリックは繁栄する現代において霊性を取り戻すことができるか。写真:Abaca/アフロ 2013年5月号記事 新ローマ法王は現代の聖フランチェスコになれるか? また、ランスのヒンクマルによる手紙には、ベネディクトゥス3世がレオ4世の死後すぐに教皇となったとある。ベネディクトゥス3世の次に教皇となったニコラウス1世の手紙でも確認できる。. ローマ教皇の現在の名前はなんて言うんでしょう? また歴代何代目にあたるのでしょうか? キリスト教の中でもカトリックはかなり長い歴史の宗教です。 今回はそんなカトリックのローマ教皇の歴代と現在の名前を調査しました。 実は初代ローマ教皇はイエスキリストに関係ある人でした! (2ページ目)11月23日、ローマ法王フランシスコが来日を果たした。ローマ法王の来日は前回のヨハネ=パウロ2世以来、実に38年ぶり。滞在中は長崎や広島を訪問し、天皇陛下や安倍首相とも面会する予定で、最終日の26日ま… どうしてローマ法王はみな男性なのでしょうか。またカトリック教会の重要なポスト(枢機卿など)に女性がついたという話もあまりききません。どうしてでしょうか。 以下の回答はいまいち回答になっていない気がします。 聖書的に原罪を 初期の教皇たちはカトリック教会に伝えられてきた伝承による。 歴史的には、教皇の称は3世紀から使われるようになり、西方教会ではさかのぼって歴代のすべてのローマ司教に教皇の称をあてた。 からいるの? 今、現在は西暦2000年代です。 初代ローマ法王はなんと西暦33年. Tel 03-5632-4411 (代) / Fax 03-5632-4453 (代) 宗教法人 カトリック中央協議会 〒135-8585 東京都江東区潮見2-10-10. 武田邦彦 女性差別主義者のローマ法王の日本批判に騙されるな!イエスの教えを守らないローマ法王!欧州の大間違い! 目次. ローマ教皇が手を叩いた女性が何を言ったか気になる!何語?動画も! 「ローマ教皇、女性信者の手をたたく 翌日に謝罪」 「#2人のローマ教皇」観てローマ教皇のニュースが目に入るようになった。映画ってすごいね。 はじめに キリスト教の成立とともに、ローマ教皇は歴史にさまざまな影響を与えました。このテキストでは、主要なローマ教皇と、どの時代にどんな業績を残したかをまとめてみます。 (初代ローマ教皇ペテロ) ペテロ(1世紀頃) ・ペテロは、キリストの12 ローマ教皇の一覧(ローマきょうこうのいちらん)では歴代のローマ教皇をあげる。. からと言われています。 そして今、現在まではなんと、歴代の. 女教皇ヨハンナ(おんなきょうこうヨハンナ、Ioanna Papissa)は、中世の伝説で855年から858年まで在位したとされる女性のローマ教皇である。 >「歴代ローマ法王を知る」その(3) アレクサンデル6世(Alexander VI/在位:1492 - 1503) 「ロドリゴ・ボルジア(スペインのバレンシア出身)は法王に就任後、ミサではなく乱交パーティにいそしんだ。」と、英国の歴史家エドワード・ギボンは記している。 11月23日、ローマ法王フランシスコが来日を果たした。ローマ法王の来日は前回のヨハネ=パウロ2世以来、実に38年ぶり。滞在中は長崎や広島を訪問し、天皇陛下や安倍首相とも面会する予定で、最終日 … 動画はネットで拡散され、批判が集まっていた。ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、バチカンで行われた大晦日の集会で、集まった信者とみられる女性の手を叩いたことを謝罪した。この動画はネットで拡散され、批判が集まっていた。一方で、教皇を擁護する人々もいた。 現地時間先週、第266代ローマ教皇フランシスコは、ローマカトリック教会の司祭や神父による修道女の性的虐待について初めて公式見解を出した。2018年、バチカンはap通信が行った調査結果に対してのコメントを拒否していた。このap通信の調査では、 867年から872年の間にウィーン司教のアド (Ado) によって書かれた年代記には、継承についてこのように簡単に記している: 9世紀において教皇制と敵対した者達が女教皇について何も語っていないことも注記に値する。例えばコンスタンティノポリスのフォティオスは、858年に世俗の官僚からコンスタンティノポリス総主教となり、863年にローマ教皇ニコラウス1世によって廃位を宣言された人物であり、当然のことながら教皇とは敵対した。フォティオスはローマ教皇に対する自身の総主教としての権威を激しく主張しており、その時代の教皇制にどんなスキャンダルがあったとしても糾弾したはずである。しかし、彼の遺した多量の文書に女教皇の話はない。それどころか、彼は「レオとベネディクトゥス、ローマの教会で連続した偉大な司祭たち」と述べている。, 17世紀にクレメンス8世が女教皇ヨハンナの不在を宣言した時に資料が改竄されたのだ、という主張もあったが、ヨーロッパの全ての修道院と図書館の文書から彼女の名前を取り除くのはほぼ不可能である。また、文書から文章を消したり偽造文書にすりかえたとしても、現代では文章の書かれた年代を文書の素材や書式などによってきわめて正確に判定できるから、改竄は容易に検出される。そして、13世紀以前の本から女教皇ヨハンナの記録が取り除かれたという証拠はない。逆に女教皇ヨハンナの記録が挿入されたことが示されている。, 前述した対立教皇アナスタシウス・ビブリオテカリウスが女教皇ヨハンナの伝説のモデルになったと主張する向きもあるかもしれない。しかし、そうだとすると彼はその後の教会でのキャリアを失うはずである。しかしアナスタシウスは対立教皇として廃位された後、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会の修道院の大修道院長になり、その後枢機卿と教皇の司書となっている。もし彼が女性だと暴かれたならば、彼は決して枢機卿や秘書とはなれなかったであろう。, 彼とは別に僅か数週間教皇位にあった女性対立教皇アナスタシウスが存在したという証拠はないし、それが女教皇ヨハンナと同一人物であるとする理由はない。, 1099年に女教皇が存在したとするジャン・ド・マイイの主張も、既知の歴史と噛み合っていない。確かにその頃教皇位には大きな混乱があった。1085年のグレゴリウス7世の死後、何人もの候補者が教皇位をめぐって争い、皇帝とローマの人々の支持を受けたものが教皇位を勝ち取る情勢であった。ウルバヌス2世が1088年に教皇となったが、ローマには対立教皇クレメンス3世が存在し、ウルバヌスは1097年までローマに居住できなかった。ウルバヌス2世が1099年7月29日に死ぬと、パスカリス2世、クレメンス3世、その他の対立教皇たちが教皇位を争った。この時期になら、女性が教皇あるいは対立教皇の一人となった可能性もあるが、ジャン・ド・マイイの言葉以外には証拠は何もない。現代に残る文書に教皇が出産を行なったという記述はないが、教皇の出産など当時の一大スキャンダルのはずだから、記録に残さないということはありえない。だからそのような出来事はなかったと言えるのである。, サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の穴のある聖座は実際に存在し、バチカン美術館に今日もある。穴がある理由については諸説あるが、椅子とその穴は、女教皇ヨハンナの伝説より古いもので、さらにはカトリック教会成立よりも数世紀古いものであることから、教皇の性別判定とは全く関係ないことは明らかである。元はローマ時代のビデかローマ皇帝一家の出産用の足のせ台であろうと仮説がたてられている。ローマ帝国あるいはローマ皇帝と関わりがあるものだとされていたため、ラテン語の称号、最高神祇官(Pontifex Maximus)と同様に、ローマ帝国の継承者としての立場を強調する意図をもって教皇たちが儀式に用いたのである。, オパヴァのマルティンの言うように、中世13世紀の教皇たちはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂からサン・ピエトロの間の直線ルートを避けていたのは事実である。しかし、この習慣が13世紀より前から行なわれていたとか、ましてそれが9世紀の女教皇を意図的に拒絶するために始まったと言う証拠はない。この習慣の起源は不明であるが、これが女教皇伝説が広まったことから続けられ、女教皇時代まで遡る習慣と思われていたことはきわめてありそうなことである。, 何人かの中世の作家は女教皇のことを「ヨハネス8世」と呼んでいるが、872年から882年の間教皇位にあった本物のヨハネス8世の人生は、女教皇のそれとは全くの別物である。, 女教皇ヨハネスと関連付けられる問題に、ヨハネス20世が公式の教皇一覧に決して登場しないという事実がある。これは、ヨハンナの存在を抹消するために教皇を数え直したからだと言われることがある。実際、ヨハネス21世が1276年に教皇になって間もない頃、10世紀のヨハネス14世とヨハネス15世の間に「もう一人の」教皇がいたという伝説が語られるようになっていた。オパヴァのマルティンは自分の年代記でこの教皇について触れている。現実には対立教皇ボニファティウス7世がその時に教皇位を占めていた。しかし、ヨハネス21世は「追加の」ヨハネス教皇の伝説に従って彼自身と14世以降の全ての教皇を数え直したのであり、史実からすれば彼は本来、ヨハネス20世のはずである。ゆえに教皇の数え方の混乱は女教皇の伝説とはまったく関係のないことである。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=女教皇ヨハンナ&oldid=81188669. ローマ教皇フランシスコの来日に湧く日本。日本国内のさまざまな場面でこの名前を目にする機会が増えた一方で気になるのは、「ローマ法王」と「ローマ教皇」の混在。その理由とは? 15世紀の後半になるまで、9世紀の女教皇というスキャンダルに対抗してこの独特の習慣が設けられたと言われていた。, 1601年クレメンス8世は女教皇の伝説が事実ではないと宣言し、シエナ大聖堂にあった女教皇の胸像は破壊された。, 17世紀中ごろのプロテスタントの歴史家、ダヴィッド・ブロンデル (David Blondel) は、女教皇ヨハンナの伝説に疑いを向けた。女教皇ヨハンナの伝説は20代はじめに死んだヨハネス11世への風刺が元になったものではないかと提唱したのである。ブロンデルは女教皇の伝説の主張とそこから推定されうる時期について詳細に分析を行ない、そのような出来事は起こり得なかったと結論づけた。, 現代の歴史家も同様の意見である。彼女の存在を示す資料は、彼女がいたとされる時代より400年ほど後の時代のものしかない。教皇が突然群衆の前で出産し石を投げつけられて死んだなどという事件を同時代人の誰も記録しないとは信じ難い。, 850年代の教皇位の記録は不完全だが、それでもレオ4世とベネディクトゥス3世の間に、「ヨハン・アングリクス」なる人物がいたという説には説得力がない。, レオ4世が855年7月17日に死去し、アナスタシウス・ビブリオテカリウスが教皇就任を宣言したが僅か2週間で支持を失い、855年9月29日にベネディクトゥス3世が教皇となった、ということは複数の歴史書で一致している。つまりトロッパウのマルティンのいう「ヨハン・アングリクス」が教皇となりうる期間は存在せず、まして2年間も教皇位につくことはありえないのである。, ベネディクトゥス3世が855年の末に教皇になったことは歴史書以外の証拠でも確かである。例えば、855年に鋳造された硬貨に、ベネディクトゥスが教皇として、ロタール1世が皇帝として表裏に描かれている。ロタールはベネディクトゥスが教皇に就任する前である855年9月29日に死んだが、ロタールがローマに居なかったため数か月間そのことはローマに伝わらず、このような貨幣が鋳造された。このことから、ベネディクトゥス3世の即位は855年9月近辺であると推定できる。 ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇(83)が12月31日夜、バチカンのサンピエトロ広場に来ていた女性の手をたたくハプニングがあった。 ローマ法王の歴代をあげると、何人いるの? 初代のローマ法王は西暦何年. ローマ教皇フランシスコは1日、女性信者が彼の腕をつかみ、自分の方へ引き寄せようとしたことに関わり、前日の自身の行いについて謝罪を行った。 女性が手を離さなかったことから、フランシスコ教皇は彼女の手をたたき、そうしたことでやっと彼女は教皇から手を離した。 女教皇ヨハンナ(おんなきょうこうヨハンナ、Ioanna Papissa)は、中世の伝説で855年から858年まで在位したとされる女性のローマ教皇である。, 歴史家たちは、創作上の人物と考えている。それは、反教皇的な風刺を起源とし、その物語にいくらかの真実が含まれているために、ある程度の信憑性を持って受け入れられたと考えられる。, 女教皇ヨハンナの話は13世紀のポーランドの年代記作家オパヴァのマルティン(ドイツではトロッパウのマルティン、マルティン・ポルヌスすなわち「ポーランドのマルティン」としても知られる)から主に知られている。彼はChronicon Pontificum et Imperatumの中でこう記述している。, つまり、この出来事はレオ4世からベネディクトゥス3世の間の850年代に起きたとされている。, もっとも引用されるのは『教皇の書』(Liber Pontificalis)の写本のうちバチカンでみつかったものの中のアナスタシウス3世ビブオテカリウスについての記述部分であり、彼は女教皇と同時代人の筈である。, しかし、この記述は明らかにマルティンの後の時代の書体で、文脈とは全く関係のない位置に脚注として挿入されている。つまりこれはマルティンの記述を元に挿入されたものであり、論拠とはなりえない。また、Liber Pontificalisの他の写本には彼女の記述は見うけられない。, マリアヌス・スコトゥス (Marianus Scotus) が11世紀に執筆した「教皇についての年代記」(Chronicle of the Popes) についても同様である。彼女の名前について触れるもっと古いテキストである写本ではヨハンナという女教皇について触れているが、これら全ての写本はマルティンの時代よりも新しい。もっと古い時代の写本はこの伝説について全く触れていない。, 女教皇の記述の見られる、マルティン以前のテキストは、ジャン・ド・マイイ (Jean de Mailly) が13世紀にマルティンよりわずかに早く執筆した年代記Chronica Universalis Mettensisだけである。彼は女教皇の時代を850年代ではなく1099年に設定し、こう書いている。, 13世紀の中頃以降、中世およびルネサンスを通じて、この伝説は広く伝えられ信じられていった。, 14世紀の作家ジョヴァンニ・ボッカッチョはDe Claris Mulieribusの中で彼女について述べた。, アスクのアダム(1404年)による「年代記」は彼女の名前をアグネスであるとし、さらにローマに彼女のものとされている像があることを述べた。しかし、それ以前には像の記述はない点からすると、おそらくそれは別の人物の像であり、後に彼女のものとされたにすぎないのであろう。, 14世紀末の版のローマ巡礼のためのガイドブック、Mirabilia Urbis Romaeにはサン・ピエトロに女教皇の遺骸が葬られたと書いている。, ヤン・フスは1415年の裁判に臨んで、「教会は必ずしも教皇を必要としない、なぜなら"アグネス教皇"の在位期間も、物事はうまくいっていたからだ」と主張した。相手方はフスの意見は教会の独立性について何も証明しないと主張はしたが、女教皇の実在については争わなかった。, 15世紀の学者、バルトロメオ・プラティナはシクストゥス4世の命令で1479年Vitæ Pontificum Platinæ historici liber de vita Christi ac omnium pontificum qui hactenus ducenti fuere et XXを書いた。この本には女教皇について以下のような内容が含まれている。, また、シエナ大聖堂に歴代教皇の胸像が置かれていたが、レオ4世像とベネディクトゥス3世像の間に、「ヨハネス8世、フォエミナ・デ・アングリア」と名前のついた女教皇の像があった。, 15世紀中頃にあらわれたタロットは、教皇とともに女教皇を含めている。女教皇のカードは女教皇ヨハンナの伝説を元にしているとしばしば示唆されている。, また、関連する伝説もあった。 独枢機卿「女性にも法王選挙権を」 / 世界に約12億人の信者を有するローマ・カトリック教会最高指導者ローマ法王は法王選出会(コンクラーベ)によって選ばれる。ペテロの後継者のローマ法王を選出するのはこれまで男性だけだった。ドイツ人のヴァルター・カスパー枢機卿( コラムで藤原氏は、国連はカトリックのローマ法王や神父は男しかなれないが、それについて国連は女性差別だと主張しないのかと書いていました。 しかも、女性天皇が存在していたように男系の女子が天皇になったことは過去に何回かあります。 Powered by WordPress & Lightning Theme by Vektor,Inc. 1人目:ペトロ 2人目:リヌス 3人目:アナクレトゥス 4人目:クレメンス1世 5人目:エウァリストゥス 6人目:アレクサンデル1世 7人目:シクストゥス1世 8人目:テレスフォルス 9人目:ヒギヌス 10人目:ピウス1世 11人目:アニケトゥス 12人目:ソテル 13人目:エレウテルス 14人目:ウィクトル1世 15人目:ゼフィリヌス 16人目:カリストゥス1世 17人目:ヒッポリュトス 18人目:ウルバヌス1世 19人目:ポンティアヌス 20人目:アンテルス 21人目:ファビアヌス 22人目:コルネリウス 23人目:ノウァティアヌス 24人目:ルキウス 25人目:ステファヌス1世 26人目:シクストゥス2世 27人目:ディオニュシウス 28人目:フェリクス1世 29人目:エウティキアヌス 30人目:カイウス 31人目:マルケリヌス 32人目:マルケルス1世 33人目:エウセビウス 34人目:ミルティアデス 35人目:シルウェステエル1世 36人目:マルクス 37人目:ユリウス1世 38人目:リベリウス 39人目:フェリクス2世 40人目:ダマスス1世 41人目:ウルシヌス 42人目:シリキウス 43人目:アナスタシウス1世 44人目:インノケンティウス1世 45人目:ゾシムス 46人目:ボニファティウス1世 47人目:エウラリウス 48人目:カエレスティヌス1世 49人目:シクストゥス3世 50人目:レオ1世 51人目:ヒラルス 52人目:シンプリキウス 53人目:フェリクス3世 54人目:ゲラシウス1世 55人目:アナスタシウス2世 56人目:シンマクウス 57人目:ラウレンティウス 58人目:ホルミスダス 59人目:ヨハネス1世 60人目:フェリクス4世 61人目:ボニファティウス2世 62人目:ディオスクルス 63人目:ヨハネス2世 64人目:アガペトゥス1世 65人目:シルウェリウス 66人目:ウィギリウス 67人目:ペラギウス1世 68人目:ヨハネス3世 69人目:ベネディクトゥス1世 70人目:ペラギウス2世 71人目:グレゴリウス1世 72人目:サビニアヌス 73人目:ボニファティウス3世 74人目:ボニファティウス4世 75人目:アデオダトゥス1世 76人目:ボニファティウス5世 77人目:ホノリウス1世 78人目:セウェリヌス 79人目:ヨハネス4世 80人目:テオドルス1世 81人目:マルティヌス1世 82人目:エウゲニウス1世 83人目:ウィタリアヌス 84人目:アデオダトゥス2世 85人目:ドヌス 86人目:アガト 87人目:レオ2世 88人目:ベネディクトゥス2世 89人目:ヨハネス5世 90人目:コノン 91人目:セルギウス1世 92人目:テオドルス 93人目:パスカルト 94人目:ヨハネス6世 95人目:ヨハネス7世 96人目:シシニウス 97人目:コンスタンティヌス 98人目:グレゴリウス2世 99人目:グレゴリウス3世 100人目:ザカリアス 101人目:ステファヌス2世 102人目:ステファヌス3世 103人目:パウルス1世 104人目:ステファヌス4世 105人目:コンスタンティヌス2世 106人目:フィリップス 107人目:ハドリアヌス1世 108人目:レオ3世 109人目:ステファヌス5世 110人目:パスカリス1世 111人目:エウゲニウス2世 112人目:ウァンレンティヌス 113人目:グレゴリウス4世 114人目:セルギウス2世 115人目:ヨハネス8世 116人目:レオ4世 117人目:ペネディクトゥス3世 118人目:アナスタシウス 119人目:ニコラウス1世 120人目:ハドリアヌス2世 121人目:マリヌス1世 122人目:ハドリアヌス3世 123人目:ステファヌス6世 124人目:フォルモスス 125人目:ボニファティヌス6世 126人目:ステファヌス7世 127人目:ロマヌス 128人目:テオドルス2世 129人目:ヨハネス9世 130人目:ペネディクトゥス4世 131人目:レオ5世 132人目:クリストフォルス 133人目:セルギウス3世 134人目:アナスタシウス3世 135人目:ランド 136人目:ヨハネス10世 137人目:レオ6世 138人目:ステファヌス8世 139人目:ヨハネス11世 140人目:レオ7世 141人目:ステファヌス9世 142人目:マリヌス2世 143人目:アガペトゥス2世 144人目:ヨハネス12世 145人目:レオ8世 146人目:ペネディクトゥス5世 147人目:ヨハネス13世 148人目:ペネディクトゥス6世 149人目:ペネディクトゥス7世 150人目:ボニファティウス7世 151人目:ヨハネス14世 152人目:ヨハネス15世 153人目:グレゴリウス5世 154人目:ヨハネス16世 155人目:シルウェステル2世 156人目:ヨハネス17世 157人目:ヨハネス18世 158人目:セルギウス4世 159人目:ペネディクトゥス8世 160人目:グレゴリウス6世 161人目:ヨハネス19世 162人目:ペネディクトゥス9世 163人目:シルウェステル3世 164人目:クレメンス2世 165人目:ダマスス2世 166人目:レオ9世 167人目:ウィクトル2世 168人目:ステファヌス10世 169人目:ニコラウス2世 170人目:ベネディクトゥス10世 171人目:アレクサンデル2世 172人目:ホノリウス2世 173人目:グレゴリウス7世 174人目:クレメンス3世 175人目:ウィクトル3世 176人目:ウルバヌス2世 177人目:パスカリス2世 178人目:テオドリクス 179人目:アルベルトゥス 180人目:シルウェステル4世 181人目:ゲラシウス2世 182人目:グレゴリウス8世 183人目:カリストゥス2世 184人目:ホノリウス2世 185人目:ケレスティヌス2世 186人目:インノケンティウス2世 187人目:アナクレトゥス2世 188人目:ウィクトル4世 189人目:ルキウス2世 190人目:エウゲニウス3世 191人目:アナスタシウス4世 192人目:ハドリアヌス4世 193人目:アレクサンデル3世 194人目:ウィクトル4世 195人目:パスカリス3世 196人目:カリストゥス3世 197人目:インノケンティウス3世 198人目:ルキウス3世 199人目:ウルバヌス3世 200人目:グレゴリウス8世 201人目:クレメンス3世 202人目:ケレスティヌス3世 203人目:ホノリウス3世 204人目:グレゴリウス9世 205人目:ケレスティヌス4世 206人目:インノケンティウス4世 207人目:アレクサンデル4世 208人目:ウルバヌス4世 209人目:クレメンス4世 210人目:グレゴリウス10世 211人目:インノケンティウス5世 212人目:ハドリアヌス5世 213人目:ヨハネス21世 214人目:ニコラウス3世 215人目:マルティヌス4世 216人目:ホノリウス4世 217人目:ニコラウス4世 218人目:ケレスティヌス5世 219人目:ボニファティヌス8世 220人目:ベネディクトゥス11世 221人目:クレメンス5世 222人目:ヨハネス22世 223人目:ニコラウス5世 224人目:ベネディクトゥス12世 225人目:クレメンス6世 226人目:インノケンティウス6世 227人目:ウルバヌス5世 228人目:グレゴリウス11世 229人目:ウルバヌス6世 230人目:クレメンス7世 231人目:ボニファティウス9世 232人目:ベネディクトゥス13世 233人目:インノケンティウス7世 234人目:グレゴリウス12世 235人目:アレクサンデル5世 236人目:ヨハネス23世 237人目:マルティヌス5世 238人目:クレメンス8世 239人目:ベネディクトゥス14世 240人目:エウゲニウス4世 241人目:フェリクス5世 242人目:ニコラウス5世 243人目:カリストゥス3世 244人目:ピウス2世 245人目:パウルス2世 246人目:シクストゥス4世 247人目:インノケンティウス8世 248人目:アレクサンデル6世 249人目:ピウス3世 250人目:ユリウス2世 251人目:レオ10世 252人目:ハドリアヌス6世 253人目:パウルス3世 254人目:ユリウス3世 255人目:マルケルス2世 256人目:パウルス4世 257人目:ピウス4世 258人目:ピウス5世 259人目:グレゴリウス13世 260人目:シクストゥス5世 261人目:ウルバヌス7世 262人目:グレゴリウス14世 263人目:インノケンティウス9世 264人目:クレメンス8世 265人目:レオ11世 266人目:パウルス5世 267人目:グレゴリウス15世 268人目:ウルバヌス8世 269人目:インノケンティウス10世 270人目:アレクサンデル7世 271人目:クレメンス9世 272人目:クレメンス10世 273人目:インノケンティウス11世 274人目:アレクサンデル8世 275人目:インノケンティウス12世 276人目:クレメンス11世 277人目:インノケンティウス13世 278人目:ベネディクトゥス13世 279人目:クレメンス13世 280人目:クレメンス14世 281人目:ピウス6世 282人目:ピウス7世 283人目:レオ12世 284人目:ピウス8世 285人目:グレゴリウス16世 286人目:ピウス9世 287人目:レオ13世 288人目:ピウス10世 289人目:ベネディクトゥス15世 290人目:ピウス11世 291人目:ピウス12世 292人目:ヨハネス23世 293人目:パウロ6世 294人目:ヨハネ・パウロ1世 295人目:ヨハネ・パウロ2世 296人目:ベネディクトゥス16世 297人目:フランシスコ.