10位は、けん玉世界記録を再び更新した演歌歌手、三山ひろしさんで、40.0%。 「香水」の瑛人さんは、39.3%で、12位。 第1部で1番、視聴率が良かったのは、紅白ディズニースペシャルメドレーで、39.4%で、第2部も合わせると、11位でした。 俳優や歌手などマルチな活躍をした昭和の大スター・ 石原裕次郎 と、演歌歌手・女優として今なお活躍する 八代亜紀 。 そのビッグなふたりのデュエット曲が『夜のめぐり逢い』です。 !」の合図と共に親衛隊を中心とした数十人が入り口のガラスを折りたたみ椅子で割るなどして乱入、これにつられて他のファン数百人も「俺達だって中に入る権利があるんだ!」と叫びながら警備員の制止を振り切って一気になだれ込んだ(この一件は翌日のニュースやスポーツ新聞で大きくとり上げられている)。, これ以後、毎年9月20日にファン有志が代々木競技場近くの代々木公園に集まって集会(解散コンサートのビデオ上映会)が行われている。[18], 2005年秋、サンセイアールアンドディからパチンコ台「CRおニャン子クラブ」がリリースされた。, ザ・ベストテンのランキング発表のような反転フラップ表示的な演出が特徴である。もっとも、視覚的には番組と同じなのはロゴとキャラクターの振り付けのみで、会員の実名は一切使われておらず、アニメ絵のキャラの顔も、特に会員に似せてはいない。登場キャラクターは全員学生服を着ているが、実際の番組では制服のまま出演することは許されなかった。, 音楽評論家の安倍寧は、おニャン子クラブと1934年公開の日本映画『隣の八重ちゃん』との類似点を指摘している[19]。, 1 奥田美香 / 2 榎田道子 / 3 吉野佳代子 / 4 新田恵利 / 5 中島美春 / 6 樹原亜紀 / 7 友田麻美子 / 8 国生さゆり / 9 名越美香 / 10 佐藤真由美 / 11 福永恵規 / 12 河合その子 / 13 内海和子 / 14 富川春美 / 15 立見里歌 / 16 高井麻巳子 / 17 城之内早苗 / 18 永田ルリ子 / 19 岩井由紀子 / 20 寺本容子 / 21 五味岡たまき / 22 白石麻子 / 23 林香織 / 24 三田文代 / 25 吉沢秋絵 / 26 赤坂芳恵 / 27 松本亜紀 / 28 横田睦美 / 29 渡辺美奈代 / 30 三上千晶 / 31 矢島裕子 / 32 山本スーザン久美子 / 33 布川智子 / 34 弓岡真美 / 35 岡本貴子 / 36 渡辺満里奈 / 37 大貫かおり / 38 工藤静香 / 39 高畠真紀 / 40 生稲晃子 / 41 貝瀬典子 / 42 斉藤満喜子 / 43 守屋寿恵 / 44 高田尚子 / 45 吉田裕美子 / 46 中島早苗 / 47 山森由里子 / 48 我妻佳代 / 49←B1 吉見美津子 / 50←B2 杉浦美雪 / 51←B3 宮野久美子 / 52 鈴木和佳子 / B4 冨永浩子 / B5 山崎真由美 / 研修生 ヨリンダ・ヤン※数字は会員ナンバー、BはB組、←はB組からの昇格, 活動中期の1986年8月と9月に、中学生で加入してきたメンバーたち5人で括られた「おニャン子クラブB組」も作られた。高校生以上で構成される本体のおニャン子クラブとは区分されていたが、1987年4月にB組の面子が全員高校生になって本体に昇格したことで、発展的解消した, おニャン子クラブB組のまま脱退した2人と『夕やけニャンニャン』番組末期に短期間だけ在籍した外国人の研修生1人には与えられなかった, 2011年に活動を再開した時に所属した事務所であり、おニャン子クラブ時代は無所属であった。, 河合その子、渡辺美奈代、工藤静香、高井麻巳子、岩井由紀子、我妻佳代らなどは、おニャン子クラブ所属前からレコード会社や芸能事務所に所属していた。, MCでは「今日は何の日?」 ファンが「終戦記念日!」と言うが、1分間の黙祷をする。, 「各方面」とお断りした後、次のランキングの歌手がフジテレビからの中継となり、追っかけマンの, 安倍寧「'86夏ポップス考 おニャン子現象」『朝日新聞』1986年8月9日付東京夕刊、3面。, おニャン子クラブ大全集 for HiQualityCD 上・下巻 限定CD-BOX, https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201806160000558.html, GOLDEN☆BEST 河合その子・国生さゆり・城之内早苗・渡辺美奈代・渡辺満里奈, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=おニャン子クラブ&oldid=81904053, 歯科衛生士を目指す為、卒業(脱退)と同時に芸能界を引退したが、おニャン子クラブの復活イベントなどには頻繁に顔を出し、その縁で1997年に, 全部で4枚のソロシングルを出した。おニャン子出身者の中で夜のヒットスタジオ1回出演。, 解散時メンバー中会員番号が最少(=在籍期間最長)で、「ザ・スカウトアイドルを探せ」オーディション出演を含めると初回から出演していた。ソロデビューの予定もあった。一時シャンプーのCMに出るなど、タレント活動をしていたがその後引退。3児の母。, 解散時メンバー中最年長で唯一の成人。解散宣言や最後の代表の挨拶を務めた。解散後は公の場所には一切登場せず、当時の本人映像の使用もテレビや, 元モモコクラブ(桃組出席番号1809番)。合格後番組に1日だけ出演。熱狂的なファンが家まで押し掛けるなどしたため脱退。タレント・モデルとして活動中。, 元モモコクラブ(桃組出席番号368番)。解散後にソロデビュー。おニャン子出身者の中でソロデビューした16名中、内海、立見、斉藤と共に夜のヒットスタジオに出演していない。, ミス・セブンティーン特別賞。元モモコクラブ(桃組出席番号1956番)。解散時最年少。解散後ヌードを披露。, 2008年7月16日に『Myこれ!チョイス 14 夢カタログ+シングルコレクション』として再発売, 1枚目は卒業生を含むソロとユニットのオリジナル、2枚目は現役メンバーによるオリジナル, 河合その子、国生さゆり、城之内早苗、渡辺美奈代、渡辺満里奈だけが参加した限定版ベストアルバム, シングルA面B面のコンプリート盤、会員番号の唄(『おニャン子Sailing夢工場'87LIVE』音源も含む)も収録, 「セーラー服を脱がさないで」から「黄砂に吹かれて」までアナログで発売されたシングル125枚に特典ディスクを収録した12cmCD126枚組, 初のコンサートツアーのリハーサル、バックステージ、ドキュメンタリー映像が中心に収録, 『おニャン子 ザ・ムービー 危機イッパツ!』と『孫の代までおニャン子クラブ』を除く全映像作品を収納したDVD-BOX, 1986年春の『全国縦断コンサート あぶな〜い課外授業』のリハーサル、バックステージ、コンサート映像に再結成時の特典映像を加えたDVD-BOX, 「おニャン子学園危機イッパツ!とんだ放課後」「三代目はおニャン子お嬢さま 花吹雪893組」「おニャン子捕物帖 謎の村雨城」を収録, 加入時期のカッコ内のアルファベットは、以下の理由により加入。その他は「ザ・スカウトアイドルを探せ」オーディションに合格して加入。, (C) : 学校の許可なしで合格したために脱退させられ、学校からも除籍処分(自主退学が認められない退学処分)になった。, (D) : 自分の意志で辞めたのだが、当時はまだ「卒業式」がなかったため、脱退を公式に発表せず、ある日突如番組から姿を消す脱退となった。, 『夕やけニャンニャン』の番組内ではアシスタントやコーナー説明を当番制で行っていた。時にロケに出ることもあった。, 本業は高校生であるとメンバーもスタッフも強く認識しており、テスト期間中などは番組を休んでもよいことになっていた(一週間前後のことが多かったが、大学受験を控えたメンバーは1ヶ月以上番組に出演しないこともあった)。また、普段も宿題を楽屋に持ち込んでメンバー同士で教えあったり、番組スタッフに勉強を見てもらうことも頻繁にあった。, オーディションは、月曜日に始まる自己紹介から金曜日の最終日までの5日間、5人で競い合い、その間毎日番組に登場して課題をこなさなければならなかった。, オーディションを受けたメンバーのなかには、芸能事務所やレコード会社に在籍していたメンバーもいる。ソロデビューを視野に入れた売込みの戦略のひとつで、オーディションに出場・合格させて観客や視聴者に「原石を見つけた」と注目させる目的であった, オーディション合格後も(芸能事務所に所属していたメンバーを除いて)、メンバーは、フジテレビ局預かりとされ、芸能事務所無所属の正真正銘の素人集団であった。その為、大部分のメンバーが番組終了と同時に解散したおニャン子クラブと共に、一般人として各々の生活に戻った。しかし2014年現在、一般生活に戻っていることが確認できるのは15名のみであり、芸能事務所に所属していない残りの25名は消息不明の状態となっている, おニャン子クラブB組(吉見、杉浦、宮野)- 当初5人でのデビューが告知されていたが、冨永と山崎が卒業。その後吉見、杉浦、宮野の3人によるデビューが再計画され、レコード店頭告知として「いつだってイレギュラー」(, 曲順:1.セーラー服を脱がさないで 2.早すぎる世代 3.夏のクリスマス 4.放課後に落ち込んだ少女 5.愛の倫理社会 6.FENを聴かせて 7.シーッ!愛はお静かに… 8.テディベアの頃-少女の香り- 9.いじわるね Darlin' 10.LIKE A CHERRY BOY 11.うしろゆびさされ組 12.女学生の決意 13.なぜ?の嵐 14.涙の茉莉花LOVE 15.さよなら夏のリセ 16.恋のチャプター AtoZ 17.およしになってねTEACHER 18.真赤な自転車 19.セーラー服を脱がさないで, 曲順:1.セーラー服を脱がさないで 2.会員番号の唄 3.LIKE A CHERRY BOY 4.早すぎる世代 5. このソロデビュー曲が演歌初の初登場1位に。元巨人の城之内投手は伯父さん。おニャン子時代は河合その子と一緒に住んでいた。04年『夕ニャン』の元ディレクターと結婚。曲ネタは岡崎友紀「私は忘れない」あたり…? 466: 1986/07/07: 高井麻巳子 おニャン子クラブ「会員番号の唄」ジャケット撮影協力:鈴木啓之, 【著者】丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代〜レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。2017年 5月、3タイトルによる初監修コンピレーションアルバム『コロムビア・ガールズ伝説』が発売。また10月25日には、その続編として新たに2タイトルが発売された。, 当ウェブサイトに掲載の記事、写真などの無断転載、加工しての使用などは一切禁止します。, http://www.sonymusic.co.jp/artist/SanaeJohnouchi/. 更新:2020-01-12, 本日5月17日は、城之内早苗の誕生日。1968年(昭和43年)生まれということは、今年51歳。そして、現役バリバリのベテラン演歌歌手である。現在のところ最新曲、昨年(平成30年)9月発売された「よりそい蛍」に至るまで、延べ31作のシングルをコンスタントにリリース。よって、決して懐古すべき存在として語ってはいけない一人である。しかし、彼女が1986年にソロデビューした頃の「若手女性演歌歌手事情」は、今振り返ってみればちょっと特殊だった。その辺りに焦点を当てながら、3半世紀に渡る彼女の歌手人生を讃えてみたいと思う。, ある世代から上の「大人」の皆さんにとって、城之内と言えば「エースのジョー」、東京讀賣巨人軍のV9時代を支えた大投手、城之内邦雄を想起するのが普通と思うが、そんな彼の兄の孫娘として生を受けたのが早苗である。幼い頃から民謡好きで、中学2年の時東京12チャンネル(現・テレビ東京)の番組「全日本演歌選手権」で一次予選を通過したのをきっかけに、CBS・ソニー(当時)にスカウトされる。この時期の知られざる活動として、85年に開催された「国際科学技術博覧会」(つくば万博)に向け、茨城県の各市町村を音頭で盛り上げようという企画のため、総合プロデューサーを務めていた寺内タケシに推薦され、彼女自身の出身地絡みの「神栖町民音頭」ほか2曲をレコーディング。プロモーション盤も存在し、マニアアイテムと化している。そんな85年に、彼女の運命を変える「夕やけニャンニャン」出演、そしておニャン子クラブ会員番号17番への道が待ち受けているのだが、おニャン子入りに先立ち、「ミスセブンティーン・コンテスト」予選で見出され、運動会要員として(! 情熱の紅! 奇特かつ極上のカバー…だから最強z(ゼーーーーーット)! ついにシリーズ5万枚突破! 女性演歌歌手が華麗にカバーするニャン! 全18曲! 昴 / 美空ひばり (or:谷村新司) 抱いて… / 藤あや子 (or:松田聖子) およしになってねTEACHER 37. 春日八郎 全曲集 2012が演歌ストアでいつでもお買い得。 男女(または性別を問わず2組)に分かれて歌唱を競う勝負や大会全般のことだが、一般的にはNHK総合テレビジョン、NHKBSによる、毎年大晦日放送の特別番組『NHK紅白歌合戦』を指すことが多い。 日本の年末の風物詩として名高い音楽バラエティ番組で、これに出場することは歌手のみならず、司会者にとっても一種のステイタスとなっている。審査員も「その年の顔ぶれ」が揃うことで有名。 特に昭和~平成初期にかけては、年間で最も高い視聴率を稼ぎ続けたキラ… おニャン子クラブ(おニャンこクラブ)は、1985年にフジテレビのテレビ番組『夕やけニャンニャン』から誕生した女性アイドルグループ。, 1985年4月1日、フジテレビのバラエティ番組『夕やけニャンニャン』開始とともに番組内のアシスタントとして同時に芸能界デビューし、3ヶ月後の1985年7月5日に発表したデビューシングル「セーラー服を脱がさないで」がヒットしてブレイク。以降、おニャン子クラブとしてのグループ名義、メンバーのソロ名義、グループ内で作ったユニット名義などで、シングル、アルバム、ビデオソフト、写真集を絶え間なくリリースし続けてヒットさせ、1980年代(元号では昭和60年代。男女雇用機会均等法が成立してバブル世代の女性が社会進出した時期)のアイドルシーンを席捲していった。, しかし、1987年8月31日の『夕やけニャンニャン』の番組終了に伴い、翌9月に解散コンサートを行って、わずか2年半の期間でその活動が閉じられた。, 2年半の間にメンバーの加入と脱退が頻繁に行われていたので、メンバーの顔ぶれは常に流動的であった。結成時は11人で、解散時は19人が在籍していた[1]。, おニャン子クラブのメンバーには会員番号が与えられ、『夕やけニャンニャン』内であろうと他局の番組であろうとも、自己紹介の際には必ず名前の前に「おニャン子クラブ会員番号××番」を付けて名乗っていた。そのため、解散後も芸能界に残るなどした著名なメンバーは名前とともに会員番号もセットにして覚えられている。会員番号の振り分けは、結成時の11人はくじ引き順で、それ以後は加入順(加入が同時の場合はエントリーNo.順)。脱退した者の番号については欠番とした。解散時、会員番号は52番まで行っていた[2]。, おニャン子クラブのメンバーは生放送である『夕やけニャンニャン』の出演に際して、大半は高校生や大学生などの学生であったことから各々の定期試験中は番組出演を控えて欠席した。また、番組側が斡旋した仕事(ドラマ撮影など)で欠席する場合もあった。そのため、『夕やけニャンニャン』を含めて、おニャン子クラブ名義での活動は必ずしもメンバー全員が揃っていたわけではなかった。, 1983年から始まったフジテレビ土曜深夜の生放送番組『オールナイトフジ』は社会的現象ともいえるほどにヒットし、そのヒットの一翼を担った、番組アシスタントの女性グループ、オールナイターズもアイドル的な人気と活動展開で盛り上がっていた。彼女らは既存の芸能人ではない素人の女子大生たちを中心に構成されていて、それまで崇高な存在であったアイドル像とは相反していたことで注目を浴びていた[3]。, その成功から、フジテレビは同じスタッフによるもので、平日夕方の時間帯で中高生をメインターゲットに放送する、『オールナイトフジ』と同様な生放送の情報バラエティ番組『夕やけニャンニャン』の開始と、オールナイターズに相当する番組アシスタントの女性グループ、おニャン子クラブの結成を企画する。, そして、1985年4月からの夕方ローカル放送枠で行うレギュラー番組に先駆けて、まずはパイロット番組として、1985年初頭に特番『オールナイトフジ女子高生スペシャル』(1985年2月23日、3月16日)を制作して放送。その特番に出演していた女子高生のなかから選抜した11人でおニャン子クラブを結成し、4月1日から『夕やけニャンニャン』放送開始とともに出演させた。, おニャン子クラブは当初からメンバーの増員を図ることとなった。『夕やけニャンニャン』番組開始時からメンバー選定のオーディション・コーナー「ザ・スカウト アイドルを探せ!」を設けて、それに合格した新メンバーが続々と加入していく。平日月曜から金曜まで夕方5時からの一時間番組だった『夕やけニャンニャン』の番組コンセプトに“放課後”を置いていたため、現役の女子高生が中心に集められた。また、「どこにでもいそう」、「ちょっと気になる可愛い同級生」と、オールナイターズのコンセプトが踏襲されて、芸能界に染まっていない素人感覚のメンバーを集めたのだが、当初から芸能界志向のある者や、その関連オーディションの常連者、すでに芸能事務所に所属していた者、オールナイターズの出身者ですでに名前が知られていた者まで参加していた。, 『夕やけニャンニャン』放送開始から3ヶ月後の7月5日にシングル「セーラー服を脱がさないで」でレコードデビュー。たちまちヒットしていき、当初から評判があった番組とおニャン子クラブの人気はここでブレイクした。それを期に『夕やけニャンニャン』は番組開始当初は7局ネットだったのが年内には全国ネット規模の23局ネットまで拡大していく。また、おニャン子クラブは、フジテレビの他の番組である『夜のヒットスタジオDELUXE』や『スターどっきり㊙報告』、他局の人気音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)、『ザ・トップテン』(日本テレビ系)にも出演を果たし、さらにアイドル情報雑誌の『明星』や『平凡』などにも登場して全国的な知名度も上がっていくようになる。, 1985年9月、「セーラー服を脱がさないで」のヒットで軌道に乗ったおニャン子クラブから、そのメンバーのひとりであった河合その子が「涙の茉莉花LOVE」でメンバー初のソロデビューを果たす。オリコン週間チャートで初登場5位、翌週には1位を獲得した。翌10月には、そのメンバーから高井麻巳子と岩井由紀子(ゆうゆ)のふたりで結成された初のグループ内ユニット、うしろゆびさされ組がフジテレビにおける新番組のアニメ『ハイスクール!奇面組』主題歌「うしろゆびさされ組」でデビューして、こちらもまたヒットして『夕やけニャンニャン』発のおニャン子クラブ関連曲は成功を収め続けた。以降も、おニャン子クラブとしてのグループ名義、メンバーのソロ、グループ内ユニットのシングル曲を続々と繰り出していくことになる。, おニャン子クラブは、テレビ番組での歌唱にとどまらず、10月に初の有料コンサートを開催。また、フジテレビの関連会社が運営する公式ファンクラブの「こニャン子クラブ」も発足して、当初から十万人単位の会員数が集まるなどして、たんなる番組企画的な存在からフジテレビにおける収益事業のひとつに向けて変換されていく。, 1月、「セーラー服を脱がさないで」のフロントボーカル4人のうちのひとりだった新田恵利が「冬のオペラグラス」でソロデビュー。オリコン初登場1位となり、30万枚以上の売り上げを記録する。同月、フジテレビ単発ドラマ枠の「月曜ドラマランド」において、おニャン子クラブのメンバー初主演ドラマとなった福永恵規主演『ボクの婚約者』放送。以後、同枠では月に一、二本のペースでおニャン子クラブのメンバーを主演に置いたものが放送されるようになっていく。, 2月、おニャン子クラブ結成時からの人気メンバーであった国生さゆりが「バレンタイン・キッス」で満を持してデビュー。3月、「セーラー服を脱がさないで」のフロントボーカル4人のうちのひとりだった中島美春が専門学校に進学するため、河合その子がソロ活動に専念するためにおニャン子クラブを脱退する。それを受けて、『夕やけニャンニャン』の番組内と同時期に開催されたおニャン子クラブのコンサートツアー最終公演でふたりの“卒業式”が執り行われ、華々しく送り出されていく。これが慣例となり、以後おニャン子クラブから脱退していく主要メンバーに対して、番組内とその同時期にあるコンサートツアー最終公演で“卒業式”が行われるようになっていく。, 活動初期からの著名なメンバーが脱退していったものの、おニャン子クラブがブレイクした後に加入してきた渡辺美奈代が7月にレコードデビューし、渡辺満里奈も10月にレコードデビュー、他にも工藤静香、生稲晃子ら、おニャン子クラブの中期から後期の人気を支え、その後も芸能界に残っていくメンバーが続々と加入してくるなど、おニャン子クラブの面子は日々充実していった。セールス面においても、1986年のオリコンシングル1位獲得46曲中、おニャン子クラブ関連が30曲獲り、52週中の36週でそれを記録するなどして席捲する(1986年のオリコン週間シングルチャートを参照)。おニャン子クラブ関連の連続リリースによりレコード店のシングル盤コーナーを訪れる客が増え、貸しレコードの普及などにより数年来低迷していたシングル盤市場が再び盛り上がりを見せたという分析もある[4]。, 一方でこの時期、おニャン子クラブ関連が毎週2~3組もランキングしていたTBSの『ザ・ベストテン』に、フジテレビと『夕やけニャンニャン』側は「順位が低い」とランキングについて異議を唱える。このランキングの見解を巡ったことによる双方の溝は埋まらなかった。7月からフジテレビと『夕やけニャンニャン』側は、おニャン子クラブ、ソロ、グループ内ユニット、そしておニャン子クラブから脱退したOGも含めた全ての出演を『ザ・ベストテン』に対してボイコットしていく。これは翌1987年4月まで半年以上にわたって長引いていくことになってしまった。, 9月の番組内およびコンサートツアー最終公演で、新田恵利、福永恵規ら、結成時からのメンバーが卒業しておニャン子クラブを脱退。それと前後して、集英社刊行の女性ファッション誌『Seventeen』主催のオーディション「ミス・セブンティーン」とコラボレーションした「ザ・スカウト アイドルを探せ!」によって選ばれた貝瀬典子ら新世代のメンバーが大量に入ってくる。番組開始当初は毎日出演、この頃は週一でレギュラー出演していたとんねるずの石橋貴明は、新メンバーの顔と名前が一致しないと嘆くようになる。, 『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブは1986年前半から中盤に掛けては前年以上のブームを巻き起こしたのだが、後半である秋口あたりからブームの退潮が見られるようになっていく。8月末に全国公開された主演映画『おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!』が興行的に失敗に終わる。そして、5月からゴールデンタイム帯で放送されていた『夕やけニャンニャン』の姉妹番組『夕食ニャンニャン』もわずか4ヶ月後の9月で終了し、本体の『夕やけニャンニャン』自体の視聴率もピークだった1986年初頭から下がり続けていった。, 3月の番組内および4月の春のコンサートツアー最終公演で、「セーラー服を脱がさないで」フロントボーカル4人のうち最後のひとりであった内海和子、初期メンバーであった国生さゆり、高井麻巳子らが脱退。5月、生稲晃子、工藤静香、斉藤満喜子の3人で結成されたうしろ髪ひかれ隊がシングル「時の河を越えて」でデビューする。ヒットしたものの、これがグループ内ユニットの最後のものとなり、翌6月15日に『夕やけニャンニャン』内で番組の終了とおニャン子クラブの解散を告知する。同時に、おニャン子クラブの新規メンバーを選ぶ番組内オーディション・コーナー「ザ・スカウト アイドルを探せ!」も終了となる。, 8月21日、ラストシングル『ウェディングドレス』を発売。同月31日、『夕やけニャンニャン』が番組終了。翌月9月20日の代々木第一体育館におけるコンサートにて解散した。おニャン子クラブ活動中にレコードデビューしていた人を中心に芸能事務所に所属していたメンバーは解散以降も芸能界に残れたが、それ以外のメンバーのマネージメントはフジテレビ預かりであったため、活動続行不能となって同時に引退していった。, 1990年代に幾度か、「あの人は今」のような番組の企画で芸能界に残ってた者、芸能界から引退していた者たちも含めた元メンバーを集め、ときには「セーラー服を脱がさないで」を歌唱させるなどもして“再結成”と謳われもしたが、あくまでもその場かぎりのものであった。, 2002年、初期メンバーのうち賛同者のみの14名によって一時的に再結成し、シングル「ショーミキゲン」をリリースした。リリース後にはイベントやテレビ出演なども果たし、同年12月5日放送の『2002FNS歌謡祭』では、後期メンバーを含めて「ショーミキゲン」と「セーラー服を脱がさないで」を歌唱した。また2010年にはテレビCM上で11名のメンバーが再結成し、「セーラー服を脱がさないで」のサビを俳優・伊藤淳史とともに歌い踊り、アラフォーになったおニャン子クラブの姿を披露した。, 2018年7月7日正午から日本テレビ系の音楽特番「THE MUSIC DAY」で、内海和子・国生さゆり・立見里歌・新田恵利・山本スーザン久美子・渡辺美奈代が出演した[5][6]。, 同年の『FNS歌謡祭』に出演した際には上記のメンバーに加え(白石除く)以下のメンバーも参加し話題になった。, また、過去にも何度か番組の企画等でおニャン子クラブの何名かのメンバーが集まった事がある。, おニャン子クラブおよびそのメンバーは(解散前もしくは卒業前・脱退前においては)、フジテレビ専属とされ、他局の番組や主催イベントに出ることは原則としてなかった。, 『ザ・ベストテン』(TBS)には彼女らの楽曲(卒業組含む)が1986年7月31日から1987年4月2日の間には多数チャートインし、1985年8月29日の初登場から1986年7月中旬までは出演していたものの、その後減少した。司会者は、おニャン子クラブの欠席理由に関して、1986年10月2日までは、「定期試験中」「コンサート中・レコーディング中」等の理由を述べていたが、1986年10月9日以降は「各方面の調整がいまだ取れず今回は欠席」という欠席理由を述べていた[13](うしろ髪ひかれ隊に関しては、番組出演が決まり、専用のセットまで組まれていたが、直前になり出演が取り止めになり、苦肉の策として、リハーサルで歌ったスタッフに歌わせている)。1987年3月に、河合その子、4月9日にゆうゆ with おニャン子クラブが第10位にランクインを機に出演拒否を解除したが、“おニャン子クラブ”としての出演は解除後も一度もなかった。ソロ出演かうしろ髪ひかれ隊のようなユニット出演のみしかなく、解除後にランクインされた曲では、「金輪際、出演する事はない」という理由で歌が披露される事はなかったなど、特に『ザ・ベストテン』との関係はおよそ良好とは言い難かった。, この件に関しては、当時のプロデューサーが出した本[14]では「おニャン子クラブの歌にランキングは付けられない」と言う理由だと説明していたが、一方で日本テレビの『歌のトップテン』には出演していたり、夕ニャン内でオリコンのコーナーを作り、おニャン子関係でランキングされるとそれを祝うという活動も行っていた。またそれ以外にも、当時発売されたおニャン子関連の書籍で、「『ザ・ベストテン』のランキングは、レコード売り上げ、有線放送リクエスト、ラジオ放送のリクエストチャート、番組に寄せられたハガキのリクエスト等の総合ポイントにて順位付けがなされていたが、放送される週によってそれらの比重が変化し(例:レコード売り上げがランキングに最重視される週もあれば、ハガキのリクエスト、もしくは有線・ラジオのリクエストが最重視される週がある等)、順位付が公正になされていなかった為、出演を遠慮していた」との記述もある[14]が、真偽の程は定かでない。なお『ザ・ベストテン』におけるおニャン子関連での初の1位獲得は解散からちょうど1年後に工藤静香の「MUGO・ん…色っぽい」でようやく達成している。, 『NHK紅白歌合戦』の出場歌手にも選出されなかったが、NHKによると1985年の不出場は「単に視聴者対象の事前調査で票数が少なかったから」と説明している[4]。なお、おニャン子クラブメンバーのうち、『NHK紅白歌合戦』に歌手として出場経験があるのは(2017年現在)工藤静香のみである(『夕やけニャンニャン』放送終了後の1988年が初出場)。, また、テレビ放送によって支えられていた知名度であったことから、メイン番組となる「夕やけニャンニャン」が地元県域局(テレビ長崎)で放送されていなかった[15]長崎県[16]においては、おニャン子の知名度はほとんど伸びなかった。[17], 1987年9月20日(日曜日)、国立代々木競技場第一体育館ではおニャン子クラブ解散コンサートが行われ、全国から3万人近いファンが集まった。また会場前の広場には チケットを手に入れられなかった数百人のファンが押し寄せ、その数は原宿駅に渡る歩道橋まで埋め尽くす程であった。そうしたファンは皆一丸となって会場から微かに聞こえてくる歌声を聞きながら声援を送っていた。, しかし、最終公演のアンコールに差し掛かった時に一部のファンが暴走。「突っ込めー!